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本文28 [はじめての『尊号真像銘文』(その125)]

(2)本文28

 法然の高弟・聖覚の文です。法然を「釈尊の使者」あるいは「善導の再誕」とほめたたえ、またこの文の後に「骨を粉にしてこれを報ずべし、身を摧きてこれを謝すべし」とも述べているところから見まして、前の隆寛の文と同じく、法然の法要の席で読まれたものではないでしょうか。親鸞はこの聖覚を隆寛とともに非常に高く評価していることは前に述べた通りですが、その姿勢は最晩年(『尊号真像銘文』が書かれたのは86歳のときです)に至るまで変らなかったことが分かります。
 では親鸞の解説を読んでいきましょう。長いので4段に分け、まずその第1段。

 「夫根有利鈍者」といふは、それ衆生の根性に利鈍ありとなり。「利」といふは、こころのとき人なり。「鈍」といふは、こころのにぶき人なり。「教有漸頓」といふは、衆生の根性にしたがうて仏教に漸頓ありとなり。「漸」は、やうやく仏道を修して、三祇(さんぎ、三阿僧祇劫のこと、阿僧祇とは無数の意味)百大劫をへて仏になるなり。「頓」は、この娑婆世界にして、この身にてたちまちに仏になると申すなり。これすなわち、仏心(禅)・真言・法華・華厳等のさとりをひらくなり。「機有奢促者」といふは、機に奢促あり。「奢」はおそきこころなるものあり、「促」はときこころなるものあり。このゆゑに「行有難易」といふは、行につきて難あり、易ありとなり。「難」は聖道門自力の行なり。「易」は浄土門他力の行なり。「当知聖道諸門漸教也」といふは、すなわち難行なり、また漸教也としるべしとなり。「浄土一宗者」といふは、頓教なり、また易行なりとしるべしとなり。(以下、本文29につづく)

 「それ根に利鈍あれば」とは、衆生の根性に利と鈍があるということです。利というのは、理解の速い人で、鈍というのは、それが鈍い人です。「教に漸頓あり」とは、衆生の根性に従って教えに漸と頓があるということです。漸とは、仏道に入って無限の時間を経てようやく仏になるということです。頓とは、この娑婆世界で、この身のままたちまちに仏になるということです。それは、禅宗・真言宗・法華宗・華厳宗などの悟りをひらくということです。「機に奢促あれば」とは、衆生の根機に奢促があるということです。奢とは理解が遅い人で、促とは速い人です。この故に「行に難易あり」というのは、機の奢促に応じて行に難と易とがあるということです。難と言いますのは、聖道門の自力の行で、易と言いますのは、浄土門の他力の行です。「まさに知るべし、聖道の諸門は漸教なり」とは、聖道の諸門は難行で漸教であると心得なさいということです。「浄土の一宗は」とは、浄土の一宗は頓教で易行であると心得なさいということです。

タグ:親鸞を読む
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