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無常と常住 [『教行信証』精読2(その29)]

(12)無常と常住

 浄土の教えには二項対立があふれています。思いつくまま上げますと「難行と易行」、「自力と他力」、「穢土と浄土」、「煩悩と菩提」、「無常と常住」など。それぞれの前項である「難行・自力・穢土・煩悩・無常」は一つに括られ、他項の「易行・他力・浄土・菩提・常住」もまた一つに括られます。浄土の教えはその前項を厭離し、他項を欣求するわけです。このように図式化しますと、すっきりと分かりやすくなりますが、それだけ危険が増すということでもあります。どういう危険かといいますと、それぞれの項目が二つの世界に配属され切り離されるということです。こちらに「難行・自力・穢土・煩悩・無常」の世界があり、あちらに「易行・他力・浄土・菩提・常住」の世界があるというように。
 いま問題となっているのは無常と常住(永劫)のコントラストです。張掄が言うのは、今生は無常の世であり、来生に期待される浄土は常住の世界であるというのに、「衆生またなんのくるしみあればか、みづからすててしかしてせざらんや」ということです。そこで「ねがはくはふかく無常を念じて、いたづらに後悔をのこすことなかれ」と忠告するのです。このように無常と常住は今生と来生に割り振られ、まったく別の世界のこととされます。こちらは無常の世界だが、あちらに常住の世界があるから、はやくこちらからあちらに往こうではないかというのですが、親鸞が伝統的な浄土教から区別されるのはこの点です。親鸞にとって無常の世界と常住の世界は別々にあるのではありません、無常の世界はそのまま常住の世界です。
 無常即常住ということばはありませんが、同じ趣旨のことばとして煩悩即菩提、生死即涅槃があり、親鸞はしばしばこれに言及しています。手近なところでは正信偈に「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃をう(能発一念喜愛心、不断煩悩得涅槃)」とありますし、また「惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ(惑染凡夫信心発、証知生死即涅槃)」とあります。親鸞は、煩悩即菩提、生死即涅槃などは聖道門で言われることだから、浄土門のわれらには関係ないとは言いません。本願を信じたそのときに、煩悩即菩提、生死即涅槃の世界がひろがると言うのです。

タグ:親鸞を読む
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