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一心かけぬ [はじめての『高僧和讃』(その151)]

             第9回 善導讃(その3)

(1)一心かけぬ

 善導を讃えるうたがつづきます。

 「真実信心えざるをば 一心かけぬとをしへたり 一心かけたるひとはみな 三信具せずとおもふべし」(第78首)。
 「真の信心なきことを、一心なしと教えては、一心欠けるひとはみな、三信なしと言われます」。

 まずは三心(三信)と一心(信心)について。
 三心には『大経』の三心(至心・信楽・欲生)と『観経』の三心(至誠心・深信・回向発願心)があり、その関係について親鸞は『教行信証』「化身土巻」でこう言っています、「二経の三心、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり」と。両者は表面上の意味では異なるが、裏に隠れた意味ではひとつであると言うのです。つまり『大経』の三心は弥陀回向の心(他力の心)であるのに対して、『観経』の三心は自力の心であるから表面上は異なるが、『観経』の自力の三心も実は他力の心に気づかせるための方便として説かれているのだから、結局は『大経』の三心と変わることはないということです。
 そして『大経』の至心・信楽・欲生といい、『観経』の至誠心・深信・回向発願心というのも信心の一心におさまるのであり、肝心要の信心が欠ければ三心もすべてないことになると詠っているのです。さあこの「信心が欠ければ元も子もなくなる」という言い回しは、本願が与えられるだけでは不十分で、そこに信心がつけ加わらなければ往生はできないと言っているように思えます。本願は弥陀からやってくるとしても、われらがそれに信心をプラスしてはじめて本願としての働きをすることができる、と。
 さてしかし信心とは本願にプラスしなければならないものでしょうか。「本願」プラス「信心」イコール「往生」ということでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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