SSブログ
はじめての『尊号真像銘文』(その38) ブログトップ

かの業力にひかるるゆゑに [はじめての『尊号真像銘文』(その38)]

(15)かの業力にひかるるゆゑに

 最後の二句「其国不逆違、自然之所牽(ごこくふぎゃくい、じねんししょけん、その国逆違せず、自然の牽くところなり)」について親鸞はこう解説してくれます、「真実信をえたる人は、大願業力のゆゑに、自然に浄土の業因たがはずして、かの業力にひかるるゆゑにゆきやすく、無上大涅槃にのぼるにきわまりなしとのたまへる也」と。先ほどは「本願力に乗ずれば」と言われていました。この言い回しでは、われらが主体として本願力に乗り込むというように受け取られてしまう可能性があります。それがここでは「かの業力(本願力と同じです)にひかるるゆゑに」と言われ、主体が本願力であることが明らかです。われらがどうしようと関係なく、本願力はわれらを牽いてくれているのです。
 万有引力について教わったときの驚きを思い出します。「どんなものも互いに引き合う力がはたらいていて、地球が太陽の周りを回っていてもどこかに飛んで行かないのは互いに引き合っているからだ。ものは下に落ちるが、あれは地球に引っ張られているんだ」といったことを教えてもらい、「あゝ、そうなのか」と目を丸くしていました。この引力はわれらの意向などお構いなしに、われらを引っ張っていて、われらとしてはそのことを知ることができるだけです。ニュートン以前ももちろん引力ははたらいていたのですが、誰もそれに気づいていなかった。ニュートンがはじめて気づき、それが実際に確認されることで、だれでも知ることができるようになったわけです。
 本願力も同じで、われらにできるのはそれに気づくことだけです。そして本願力の場合はそれに気づくかどうかが決定的で、気づくことがそのまま救われることであり、逆に気づきませんと救いから取り残されてしまいます。引力はといいますと、それに気づいたからと言って、それが生きることに影響するわけではありません。世界には引力なんて知らない人もたくさんいるでしょうが、それで日々の生活が困ることはありません。しかし本願力の場合は、それにつねに牽かれていると気づくかどうかは人生の一大事です。

                (第3回 完)


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『尊号真像銘文』(その38) ブログトップ