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真理のことば [正信偈と現代(その40)]

(4)真理のことば

 さてそのような「真理を伝えることば」とは別に「真理のことば」があるのではないか、これがいまの論点です。
 「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神とともにあり、言は神なりき」とヨハネ福音書の冒頭にあります。この言は普通のことばではないでしょう。神そのものであることばというのですから、これこそ「真理のことば」と言えると思います。仏教においても「太初に真理のことばがあった」のではないでしょうか。この「真理のことば」は普通のことばとはまったく異なり、それを聞くことがそのまま救いとなることばです。
 釈迦はあるときこの「真理のことば」を聞き救われた。そしてそれを人に伝えようとしたのですが、さてどう伝えればいいか。釈迦はどのように伝えても分かってもらえないだろうと一旦はあきらめるのですが、梵天の勧請(かんじょう)を受け、元の修行仲間にはじめて法と説いたという言い伝えがあります(初転法輪)。釈迦は「真理のことば」を伝えることばを探そうとして苦労したのですが、その結果として説かれたのが無我であり縁起です。
 無我や縁起は真理を伝えるために釈迦が生みだしたことばであり、そこには釈迦の独創性があります。しかしそれは「真理のことば」ではありません。「真理のことば」はもうすでに語られており、釈迦はそれを聞いたのです。このように釈迦は、自分は「真理のことば」を聞いたということを伝えようとして「無我」や「縁起」という独自のことばを生み出したのですが、それとは別に物語のことばをつかって「真理のことば」を伝えようとしたのが、法蔵菩薩が大いなる誓願をたて、それが南無阿弥陀仏としてわれらに届けられたという教えではないでしょうか。
 本願や名号も無我や縁起と同じように「真理のことば」ではなく「真理を伝えることば」です。

タグ:親鸞を読む
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