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慶喜の一念 [「『正信偈』ふたたび」その95]

(7)慶喜の一念

親鸞が「よきひと」法然から聞いたのは「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」という仰せです。しかし親鸞が「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」とまで言えるのは、この仰せを通して弥陀の光明・名号が与えられたからに違いありません。法然のことばを通して、親鸞に不思議な光明(ひかり)と名号(こえ)が届けられたということです。親鸞がこの「ひかり」と「こえ」をつかまえたのではありません、この「ひかり」と「こえ」が親鸞をつかまえたのです。そしてこの「ひかり」と「こえ」につかみ取られたことが取りも直さず金剛の信心を賜ったことです。親鸞は法然が「よきひと」であるから法然にすかされても後悔しないのではありません、法然の仰せを通して不思議な「ひかり」と「こえ」に遇うことができたからこそ法然が親鸞の「よきひと」となったのです。

さて第3句「慶喜の一念相応して後」ですが、これは第2句の「行者まさしく金剛心を受けしめ」と一体です。これまで第1句「本願の大智海に開入すれば」と第2句「行者まさしく金剛心を受けしめ」とはひとつであることを見てきましたが、第3句「慶喜の一念相応して後」もまた前二者と切り離すことができません。「本願に遇う」ことと「金剛の信心を得る」ことと「慶喜にあふれる」ことは「これあるによりてかれあり、これ生ずるによりてかれ生ず」という関係にあり、したがって「これなければかれなし、これ生ずることなければかれ生ずることなし」です。本願の海に入ることができ金剛の信心を得ることは、慶喜の思いが心にあふれることに他なりません。

このことは第十八願成就文にもはっきり見て取ることができます。「その名号を聞きて、信心歓喜せん(聞其名号信心歓喜)」とあるなかの「その名号を聞きて」が「本願の大智海に開入すれば」、「信心」が「行者まさしく金剛心を受けしめ」、「歓喜せん」が「慶喜の一念相応して後」に当たります。第十八願成就文において信心と歓喜とは一語になっているように、金剛心を受けることと慶喜の一念がおこることは切っても切れない関係にあります。


タグ:親鸞を読む
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