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もう入っていた [はじめての『高僧和讃』(その52)]

(10)もう入っていた

 もういちど「涅槃の門」に戻りますと、この門は前方にあるのではなく、後方にあるのでした。前方に門があるのを見て「さあ、あの門を入ろう」とするのではなく、すでに入ってから、「あゝ、もう門に入ったのだ」と気づくのです。
 前方に門があるのを見て入ろうとするのでしたら、そのとき、この門はほんとうに涅槃に至る門であるかどうかを検討しているはずです。ひょっとしたらこれは涅槃にではなく地獄に至る門ではないかと。そして、そうした検討をするということは、この門と他の門を比較するということです。西の方角にはこの門がありますが、南にも、東にも、北にも門があって、みなこちらから入りなさいと誘っているはずですから、それらを比較しなければなりません。
 皇帝が尋ねているのはそのことです。四方八方に門があるのに、どうして西の門なのかと問うているのです。曇鸞はその問いに「わたしにはそのような比較検討する智慧才覚はありません」と答えるのですが、これは、「わたしの智慧才覚でこの門を選んだのではありません」という意味でしょう。「もう気がついたらこの門を入ってしまっていたのです」と言っているに違いありません。
 これが自力ではなく他力でということです。
 思いだされるのは『歎異抄』の12章です。他門の人から「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやし」と貶されたとき、どうするかということです。そのとき「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はをとり(劣り)なり」と立ち向かっていくのではなく、「われらがごとく、下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします」と答えて争わないのがよろしいと唯円は説いています。これも同じ趣旨で、是非善悪を比較して念仏を選んだのではありません、気がついたときにはもう念仏の門に入っていたのです、悪しからず、ということでしょう。

タグ:親鸞を読む
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