SSブログ
『ふりむけば他力』(その66) ブログトップ

「わたし」への執着 [『ふりむけば他力』(その66)]

(5)「わたし」への執着

 仏教はあらゆる苦しみが「わがものへの執着」から生まれ、そのさらに元には「わたしへの執着」があると説きます。注目したいのは、苦しみの元が「わがもの」そして「わたし」にあるとは言わずに、「わがもの」そして「わたし」への「執着」にあると言うことです。これは何を意味するかといいますと、「わがもの」そして「わたし」は、どこかにそれ自体として存在するわけではないということです。存在するわけではないのに、あたかも存在するかのごとくに囚われ、そこから苦しみが生まれてくるということです。執着とは取りも直さず囚われであり、囚われとはありもしないことをあるかのごとくに思い込むことです。
 高校教師時代の辛い思い出があります。ひどく荒れた学校に赴任したときのことです。その荒廃ぶりは風のたよりに聞いていましたが、ぼくには根拠のない自信がありました。そういう学校で自分の力をためしてやろうじゃないかなどと思い上がった気持ちすらあったのです。で、実際に行ってみて、すぐ思い知らされました、これはそんじょそこらの荒れ方ではないぞと。まったく授業をさせてもらえないのです。こうして地獄のような日々がはじまったのですが、ぼくにとって何が辛かったかといいますと、授業を成り立たせることができないことよりも、授業が成り立っていないという状況が外から見られることでした。天気のいい日はカーテンを引きますから教室内は見えなくなるのですが、雨降りの日など、カーテンは開けっ放しで、しかも電気をつけますから丸見えになります。ぼくはもう気が気でなかった。
 ここから分かりますのは、教師としての力量があるわけでもないのに、自分には並々ならぬ力があるはずと思い込むことで、さまざまな苦しみを味わうことになるのであり、これが囚われであるということです。ほんとうに力量があるなら、それに囚われることはなく、そのことで苦しむこともありません。かくして、「わがものへの執着」そして「わたしへの執着」が苦しみの元になるのは、「わがもの」や「わたし」はそのものとして存在するわけではないのに、存在するかの如く囚われるからであることが了解できます。われらはありもしない「わがもの」や「わたし」があるかのように思い込み、それが元であらゆる苦しみが起ってくることになるのです。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その66) ブログトップ