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自力諸善のひとはみな [親鸞の和讃に親しむ(その103)]

(3)自力諸善のひとはみな

自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける(第67首)

自力で善にはげむひと 仏の智恵をうたがって 自業自得というべきか みずから獄に閉じられる

「自力称名のひと」も「自力諸善のひと」も、仏智の不思議を疑っていますから、「わがちからにてはげむ善にて」(『歎異抄』第5章)往生を勝ち取ろうとしています。それはしかし「ほとけのいのち」をこちらから「つかみ取ろう」とすることに他なりません。延暦寺で行われている常行三昧は厳しい念仏行により「ほとけのいのち」を眼前にとらえようとすることで、現に「仏にまみえることができた」と言う人もいるそうです。しかしすでに述べましたように、「わたしのいのち」がこちらから「ほとけのいのち」を「つかみ取る」ことはできません。それは有量の世界を出て無量の世界に入ろうとすることであり、原理的に不可能なことです。物理式の解として無限大(∞)が出てくれば、その物理式のどこかに欠陥があるとされるそうです。これはある物理学者から教えられたことですが、われらは無限を捉えることができないという諦念があるということでしょう。

さてではどうにかして「ほとけのいのち」を「つかみ取ろう」とするとどうなるか。それに答えるのが「自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける」です。

「自業自得」ということばは、自らの過去の業(行為)の結果を自ら得るという意味であり、そこには大きな問題が潜んでいますが、それについて述べるのは別の機会にして、ここでは「当然の道理として」という意味に受けとっておきましょう。「七宝の獄」は第65首にも出てきましたが、『大経』によりますと、転輪聖王(てんりんじょうおう、理想的な王)の王子が王に対して罪を犯して入れられる牢獄のことで、そこは七宝で飾られ何ひとつ不自由はありませんが、ただ金鎖でつながれてそこから出ることはできません。これはすなわち「わたしのいのち」がどんなに「ほとけのいのち」を「つかみ取ろう」として必死になっても、「わたしのいのち」の世界から出て、「ほとけのいのち」の世界へ入ることはできないということを意味します。いつまでも「わたしのいのち」の世界の中をぐるぐる経廻るばかりであるということです。


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