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はじめての『教行信証』(その176) ブログトップ

2014年1月20日(月) [はじめての『教行信証』(その176)]

 さて、親鸞が、釈迦在世・正法の時代は聖道門で、像法・末法・法滅の時代は浄土門、というように割り振ってはいないことを見逃すことはできません。
 聖道門は在世・正法の時代にしか通じないのはその通りですが、浄土門は在世・正法をはじめ、像・末・法滅のすべての時代に通じるとしているのです。末法思想と浄土思想が対として説かれることから、うっかり浄土の教えは末法にしか当てはまらないと勘違いしてしまいがちですが、そうではありません。どの時代にも当てはまるのです。
 これはどういうことを意味しているのでしょう。
 聖道門は時代が下ると通用しなくなるが、浄土門はどの時代にも通用するということは、聖道門の真理は浄土門だということです。浄土門は釈迦在世・正法の時代には聖道門の陰に隠れていたのですが、時代が下るにつれてその真価を発揮するようになるということは、仏法の真の姿は浄土門だということに他なりません。
 ぼくらは釈迦の教えと浄土の教えはよほど違うものだと思いがちです。確かに原始仏典と浄土仏典を比べてみますと、これが同じ仏教かと疑いたくなります。でも、釈迦の言いたかったこと(縁起とか無我ということ)は、実は浄土の教え(他力ということ)の中にこそあるのだというのが、親鸞の言い分だということです。
 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の伝でいきますと、「聖道門でさえ救われるのだから、浄土門で救われるのは当然だ」となるのではないでしょうか。

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