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こんな罪深い自分 [『唯信鈔文意』を読む(その154)]

(3)こんな罪深い自分

 「こんな罪深い自分は救われるはずがない」(機の深信)と「こんな罪深い自分が救われる」(法の深信)は、どこからどう見てもガチンコにぶつかっています。ですから前者を否定することで、はじめて後者にたどりつけると考えるのが理にかなっています。その意味で「いかでかこのみをむかへたまはむ」という疑いを乗り越えて、「こんな罪深い自分も救われる」という安心にたどりつけるという聖覚の理路は真っ当であるように思えます。
 さてしかし、ここで立ち止まって熟慮しなければならないのは、「こんな罪深い自分」という自覚についてです。他ならぬこの自分について「なんと罪深い存在か」と感じるということ。と言いますのも、聖覚にとって「機の深信」はどこか他人事のように感じられるのです。「いかでかこのみをむかへたまはむ」と思うのは自分ではなく誰か他の人のようです。
 「こんな罪深い自分」とは言っても、なにかよそよそしい感じで、本心からではないような気配があります。法然の『選択集』を見ても、もちろん罪や悪についても説かれますが、それは一般論としてであって、自分については「愚者」としての自覚はあっても「悪人」という感覚は希薄のような気がします。
 その点、「悪人」の自覚において親鸞は際立っているのではないでしょうか。親鸞の「他力」の思想と、この「悪人」の自覚とは切っても切り離せないもので、それが「善人なをもて云々」にあらわれていると言えます。そこで「他力」と「悪人」の結びつきについて改めて考えておこうと思います。
 そもそも無常や無我という仏教の基本タームを見ますと、悪との接点はないように思えます。世界をどう捉えるかという知的な側面が表に出ていて、悪とか罪とかいうこととは縁がなさそうな感じです。

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