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第17願と第18願 [正信偈と現代(その193)]

(6)第17願と第18願

 本願成就文で第17願と第18願が融合していると言いましたが、『無量寿経』(康僧鎧訳のいわゆる『大経』)の異訳のなかにはこの二願が合体されて一願となっているものがあります。改めて確認しておきますと、『大経』の異訳として『大阿弥陀経』・『無量清浄平等覚経』・『無量寿如来会』・『荘厳経』の四つが現存していますが、このうち『大阿弥陀経』と『無量清浄平等覚経』が初期のかたちと考えられていまして、本願の数が二十四です。親鸞は「行巻」に『大経』と『無量寿如来会』だけでなく、二十四願経の『大阿弥陀経』と『無量清浄平等覚経』からも引用しているのですが、そのなかで『大阿弥陀経』の願文(第4願)を上げておきましょう。
 「それがし作仏せしめん時(仏となる時)、わが名字をもつてみな八方上下無央数(限りない数)の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民、ケン飛蠕動(ケン飛は飛ぶ虫、蠕動は地をはう虫)の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん(慶びのこころをもたないものはないだろう)。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願をえていまし作仏せん。この願をえずはつひに作仏せじ」。諸仏が阿弥陀仏をたたえて南無阿弥陀仏と称える声が十方世界のあらゆる衆生に聞こえ、その声を聞いて「あゝ、うれしや」と思うものはみなわが浄土に迎えたい、そうでなければ仏にならないというのです。『大経』の第17願と第18願がここで一つになっているのがお分かりになると思います。
 親鸞が「行巻」にこれを引用したのは、『大経』と『無量壽如来会』の第17願だけでは、どうして往生の行が念仏であるかがはっきりしないと思ったからに違いありません。ぼく自身、どうして「行巻」に第17願が持ち出されるのかがピンとこなかったのですが、この『大阿弥陀経』と『無量清浄平等覚経』の引用をくりかえし読むうちに、そうか、称名には聞名が先だっているのだ、そのことを言おうとしているのだと遅まきながら気づいたというわけです。第17願は第18願と一緒になってはじめてその意味するところがはっきりしてくるのです。

タグ:親鸞を読む
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