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四海のうちみな兄弟 [「親鸞とともに」その21]

(21)四海のうちみな兄弟

宗教の救いは「上がり」であるかのように思われている嫌いがあります、救いが与えられることで「すべてよし」であるかのように。しかし実は救いが与えられたところからすべてが新たにはじまるのです、それまでの人生とは異なる新しい生がそこからはじまるのです。「たまたま」与えられたこのいのちが何とも「ありがたい」と思えることが宗教の救いですが、ここからほんものの人生が新たにはじまるのです。

これまではといいますと、「わたしのいのち」の根拠は「わたしのいのち」にしかなく、何としても「わたしのちから」で生きなければならないと気張って生きてきました。そして「負けてたまるか」と自他相剋を生きてきました。それがいまやこの「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」に生かされており、すべてのいのちが「ほとけのいのち」として「ひとつ」であるという世界に出ることができたのです(※)。かくしてもう「勝つも負けるもない」世界に出られたのです。これが新しい生のスタートです。

※これをあらわすことばとして『無量寿経』には「それ四海(すべての世界)のうちみな兄弟とするなり」とありますし、親鸞のことばとしては『歎異抄』に「一切の有情(生きとし生けるものです)はみなもつて世々生々の父母兄弟なり」とあります

では新しい生とは具体的にどのようなものでしょう。浄土の教えにはそれを表すものとして「還相」ということばがあります。

「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」に生かされていることに目覚めるのが「往相」(自分が救われる姿、救いへ往く姿)ですが、それは同時に、まだ「ほとけのいのち」に目覚めていない人たちを揺り動かして目覚めさせる「還相」(人を救う姿、救われていない人のもとに還る姿)であるということです。「わたしのいのち」のなかで深い眠りのなかにある人は、自分で目覚めることはできず、すでに目覚めている人から目覚めさせてもらわなければなりません。自分が「ほとけのいのち」に目覚めることができたのも、すでに目覚めた人から目覚めさせられたのです。しかしそれで終わるわけではなく、すぐさま、まだ深い眠りのなかにある人たちを目覚めさせることになります。こうして目覚めは、すでに目覚めた人からまだ目覚めていない人へと次々にリレーされていくのです。


タグ:親鸞を読む
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