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極重(ごくじゅう)の悪人はただ仏を称すべし [「『正信偈』ふたたび」その103]

(5)極重(ごくじゅう)の悪人はただ仏を称すべし

源信讃の後半4句です。

極重悪人唯称仏

我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

極重(ごくじゅう)の悪人はただ仏を称すべし。

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼をさへて見たてまつらずといへども、大悲、倦(ものう)きことなく、つねにわれを照らしたまふといへり。

源信和尚はこう言われます、「極重の悪人であるわれらは、ただ弥陀の名号を称えさせていただくしかありません。

わたしもまた弥陀の光明に摂取されているにもかかわらず、煩悩が目を覆ってその光明を見ることができませんが、それでも弥陀の大悲は絶えることなくいつもわたしを照らし続けてくださるのです」と。

第1句「極重の悪人はただ仏を称すべし」ということばは、『往生要集』の「第八、念仏証拠」に出てくることばがもとになっています。そこでは、往生のためになぜ念仏の一門を勧めるのかという問いが出され、それに対する答えのひとつとして、『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と説かれていることが指摘されているのです。さてこの極重悪人ですが、文字の表面上の意味では、善人に対する極悪人を指すのでしょうが、その下に隠されている意味としては、己を極悪人と思わざるをえない人のことで、それは源信その人であり、そしてまた人はみなそうであると言わなければなりません。

われらはみなおしなべて極悪人であるとするところに浄土の教えのもっとも深いものがあります。

それをはっきり言ってくれたのが、これまで折にふれて参照してきました善導の「二種深信」です。真実の信心には二つの面があり、一つは「自身は現にこれ罪悪深重の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」と信ずることで、もう一つは「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受(しょうじゅ)して、疑なく慮(おもんぱか)りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得」と信ずることです。普通に信心といいますと、後者の「法の深信」をさしますが、それが真実のものであるならば、その裏側に必ず前者の「機の深信」があることを指摘してくれたのです。たとえ「かの願力に乗じて、さだめて往生を得」と信じていても、もし「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という信がないとしますと、そんなものはちょっと風が吹けばすぐ吹き飛んでしまう夢のようなものにすぎません。


タグ:親鸞を読む
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