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主観的と客観的 [正信偈と現代(その199)]

(5)主観的と客観的

 本願はそれに気づいてはじめて存在すると言いました。本願はそれに気づいた人にだけ存在し、気づかない人には存在しないということです。これにはおそらく疑問の声が上がるでしょう、そんなものを「存在する」と言っていいのか、と。何かが存在するというのは、誰にとっても(つまり客観的に)存在するということを含意しているのではないのか、ということです。これは前にも考えたことがありますが、浄土の教えを考えるにあたって要となることですから、何度でも確認しておきたいと思います。
 いま客観的とは「誰にとっても」ということだと言いましたが、それと対照的に、主観的とは「ある人にとってだけ」ということです。
 さて、ある人にとってだけ存在する、すなわち主観的に存在するというのは「存在する」と言うに値しないでしょうか。頭に浮ぶのは、親鸞のあのことばです。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』後序)。親鸞は「弥陀の本願はわたしにとってだけ存在する」と言うのですが、そんなものは「存在する」と言うに値しないのではないか。「とんでもない」ということばが返ってくるでしょう、「わたしにとってだけ存在するからこそ、存在すると言うに値するのだ」と。
 「わたしにとってだけ存在する」とはどういうことでしょう。「他の人にとってどうであろうと、わたしにとってはかけがえのないものとして存在する」ということです。
 どうやら「存在する」というのは「価値がある」ということのようです。価値があるからこそ存在すると言えるのであり、価値がなければ存在しようがしまいが関係ありません。そして、存在しようがしまいが関係ないということは、突き詰めると存在しないということにならないでしょうか。机の引き出しを開けますと、どういうわけで仕舞っておいたのかも分からなくなったものが出てきます。そんなとき邪魔だからとゴミ箱に捨てますが、それは、存在しようがしまいが関係なくなったものが、ついに存在しなくなるということです。

タグ:親鸞を読む
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