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8月26日(金) [矛盾について(その388)]

 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」―このことばは確かに身に沁みるのですが、しかし、いざ誰かと議論になると、自分は正しく相手が間違っていると思います。「そらごと、たわごと」は相手のことで、自分の主張は「まこと」だと頑張ってしまう。どうしてでしょう。自分が間違っているかもしれないと思えないのはなぜでしょう。
 憲法9条論議でいつも持ち出される議論ですが、こちらに何の落ち度もないのに、どこかから攻撃されたらどうするか。何もしないでやられるままに任せるのか。前に、喧嘩や戦争には当事者双方にそれなりの理由があるのだから、一方が全面的に悪いとは言えないと述べましたが、とすればこんな場合も反撃してはいけないのでしょうか。そんなばかな話はないという声が腹の底から突き上げてきます。そんなのは奴隷の論理だ、理不尽なことをされたら、それに立ち向かっていってこそ人間ではないかと。こんな思いが平和のこころを素直にうけいれにくくさせているのです。
 争うことすべてが不当ではなく、正当な争いもあるのではないかという思い。
 争いということばに含まれているものはかなりの幅があります。意見の対立から言い争いとなり、つかみ合いの喧嘩に発展し、それが国家間のいざこざになりますと戦争にまで行き着きますが、そもそもの発端はお互いの意見が異なることです。それが災いの元なのだから、相手に合わせていけばいい、そうすれば争いなど一切起こらない、のでしょうか。ほんとうにそれができれば争いとは無縁に生きることができるでしょうが、そうはいかないのが人間です。

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