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『歎異抄』を読む(その151) ブログトップ

10月14日(日) [『歎異抄』を読む(その151)]

 いよいよ13章の最後の段です。本願ぼこりについての結論部分です。
 唯信抄(※)にも、弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべきとさふらふぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてさふらへ。おほよそ悪業煩悩を断じつくしてのち本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄具足せられてこそさふらふげなれ、それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにてさふらふべきぞや。かへりてこころをさなきことか。 
 聖覚上人の『唯信抄』にも「阿弥陀仏にどれほどの力があると思っているのでしょう、罪深い身だから救われないのではなどと疑うのは」とあります。本願を誇りに思う心があるからこそ、他力を頼む信心も確かなものになると言うべきです。悪い行いや煩悩を滅し尽くしてから本願を信じるのでしたら、本願を誇りにすることもないでしょうが、煩悩を滅し尽くしましたら、それは取りも直さず仏になったということですから、折角の本願も用がないということになります。本願ぼこりを戒めている人たちも、煩悩や不浄な思いを持っているに違いありませんが、としましたら、その人たちも本願を誇りとしているのではないのでしょうか。どのような悪を本願ぼこりと言い、どのような悪をそう言わないのでしょう。いかにも考え方が幼いと言わざるを得ません。
 ※聖覚は法然の弟子と言えるでしょうが、比叡山を離れることなく微妙な位置にいた人です。親鸞はその聖覚の『唯信鈔』を非常に大切にしていまして、何度も書き写しては関東の弟子たちに送っているのです。そしてそれを注釈して『唯信鈔文意』を著しています。

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