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清浄な願心と浄土の荘厳 [「『証巻』を読む」その70]

(7)清浄な願心と浄土の荘厳

一法句(清浄句)と浄土荘厳全二十九句に戻りますと、法性法身と方便法身と同じように、「これあるに縁りてかれあり、かれあるに縁りてこれあり」という関係にあると言えます。一法句すなわち清浄な願心があるに縁りて浄土の荘厳があり、浄土の荘厳があるに縁りて清浄な願心があります。清浄な願心のあるところ、かならず浄土の荘厳があり、浄土の荘厳のあるところ、かならず清浄な願心があるのであって、どちらか一方だけがあるということはありません。われらは濁った願心をもってこの娑婆に生きていますが、それを映す鏡として法蔵菩薩の清浄な願心があり、それと切り離すことができないものとして浄土の荘厳があるということです。

あらためて確認しておきますが、こちらに濁った願心と一体のものとしての娑婆があり、あちらに清浄な願心と一体のものとしての浄土があるのではありません。それではプラトンの二世界説になってしまいます。そうではなく、濁った願心と一体のものとしての娑婆の気づきがあるところ、そこには清浄な願心と一体のものとしての浄土の気づきがあります。娑婆の気づきと浄土の気づきはひとつです。というか、ここは娑婆であるということを気づかせてくれるのがその鏡としての浄土の気づきですから、ここは娑婆であると気づいたときには、「その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)という気づきがあります。そしてこの気づきが信心に他なりません。

さて曇鸞はこの文の最後に「菩薩、もし(法性法身と方便法身の)広略相入を知らざれば、すなはち自利利他するにあたはず」と述べていますが、これはどういうことでしょう。法性法身が自利、方便法身が利他にそれぞれ対応すると考えられますから、二つの法身の関係が「法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す」と言われますように、自利と利他も「自利によりて利他を生じ、利他によりて自利を出す」という関係にあることを述べていると思われます。自利のあるところ、かならず利他があり、利他のあるところ、かならず自利があるということ、すなわち自利と利他が一体となっているということで、ここに還相の菩薩の立脚点があるということです。


タグ:親鸞を読む
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