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至心は本願海から [『教行信証』「信巻」を読む(その107)]

(11)至心は本願海から

至心についての締めのことばです。

しかれば大聖(釈尊)の真言、宗師(善導)の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。

すでに「真実」といへり。真実といふは、『涅槃経』にのたまはく、「実諦(じったい、真実のこと)は一道清浄にして二あることなきなり。真実といふはすなはちこれ如来なり。如来はすなはちこれ真実なり。真実はすなはちこれ虚空なり。虚空はすなはちこれ真実なり。真実はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ真実なり」と。以上

釈に「不簡内外明闇」(ふけんないげみょうあん、内外明闇をえらばず)といへり。「内外」とは、「内」はすなはちこれ出世(聖者のこと)なり。「外」はすなはちこれ世間(凡夫のこと)なり。「明闇」とは、「明」はすなはちこれ出世なり。「闇」はすなはちこれ世間なり。また「明」はすなはち智明(智者のこと)なり。「闇」はすなはち無明(愚者のこと)なり。『涅槃経』にのたまはく、「闇はすなはち世間なり。明はすなはち出世なり。闇はすなはち無明なり。明はすなはち智明なり」と。以上

これまで至心の意味が明らかにされてきましたが、その結論がここで示されます、至心とは本願海から回向された真実の心であると。われら群生海にはもともと至心すなわち真実の心というものはなく、それは本願海からやってきたものであるということです。それをさらに裏づけるために『涅槃経』から、真実とは如来であり、また虚空であり、さらに仏性であるという文が引かれます。ここにおいて、至心とは真実の心ですが、それは真実そのものと別ではないと了解されています。真実の心があるところに真実があり、真実があるということは真実の心があるということですから、両者は同じとされるのです。『尊号真像銘文』に「至心」について「至心は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり」と述べられていますが、ここでも真実と真実の心は同じとされています。

最後の注釈は、先の善導の言に「内外明闇を簡ばず」とあったのを受けて、如来の真実心を賜ることについては、聖者も凡夫も、賢者も愚者も変わることはないという意味であることを明らかにしています。


タグ:親鸞を読む
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