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王もと国を貪じて、この父の王を逆害す [「信巻を読む(2)」その112]

(3)王もと国を貪じて、この父の王を逆害す

釈迦の説法はさらにつづきます。

大王、衆生の狂惑におほよそ四種あり。一つには貪狂(とんきょう、貪欲による狂乱)、二つには薬狂(薬による狂乱)、三つには呪狂(しゅきょう、人に呪われることによる狂乱)、四つには本業縁狂(過去の業縁による狂乱)なり。大王、わが弟子のなかに、この四狂あり。多く悪を作るといへども、われつひにこの人、戒を犯(ぼん)せりと記せず。この人の所作、三悪(三悪趣-地獄・餓鬼・畜生)に至らず。もし還つて心を得ば(正気にもどれば)、また犯といはず。王もと国を貪じて、この父の王を逆害す。貪狂の心をもつてためになせり。いかんぞ罪を得ん。大王、人の耽酔(たんすい、酔いしれる)してその母を逆害せん。すでに醒悟(しょうご、酔いがさめる)しをはりて心に悔恨(けこん)を生ぜんがごとし。まさに知るべし、この業また報を得じ。王いま貪酔せり。本心のなせるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。

これはわれらの悪が狂乱あるいは耽酔のなかで起こることを指摘しています。それを囚われということができるでしょう。われらは我執という囚われのなかにあることから否応なく悪をなしてしまうということです。これが狂乱あるいは耽酔ということですが、だからと言ってわれらに悪の責任がないということにはなりません。囚われのなかにずっぽり入っているときは責任の意識などありませんが、囚われに気づいたとき、われらには慚愧の念が生まれ、そして責任の思いがおこってきます。「すでに醒悟しをはりて心に悔恨を生ぜん」と言われるのがそれで、阿闍世にはこれが起っているのです。

ここでは「王いま貪酔せり。本心のなせるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや」と言われますが、これまた誤解を生みかねないと言わなければなりません。阿闍世が父王を殺害したのは我執という囚われのなかにあったからであるのは間違いありませんが、しかし囚われていたのであり、したがって本心ではないから、罪がないということにはなりません。現に、囚われていたことに気づいたとき、激しい罪の意識に襲われます。そしてその罪の意識、慚愧の念こそが阿闍世を救うことになるのです。


タグ:親鸞を読む
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