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自力の方便を通して他力の真実へ [『観無量寿経』精読(その71)]

(4)自力の方便を通して他力の真実へ

 前に嘘つきのパラドクスの話をしました、誰かが「わたしは嘘つきです」と表明するとき、パラドクスが炸裂し、わけが分からなくなると。でも他の誰かが「あなたは嘘つきです」と言うのを聞くときは事情がまったく別で、それに対して猛然と抗議するか、もしくはグーの音も出なくなるかのどちらかです。それとどこか似ているところがあり、自分が「わたしが本願を信じ念仏すれば往生できる」と表明するときは、本願を信じるのも念仏するのも「わたし」でしかなく、これはどこから見ても自力の信心、自力の念仏です。ところが他の誰かが「あなたが本願を信じ念仏すれば往生できる」と言うのを聞くときは、かならずしも自力の信心、自力の念仏ではなくなります。
 「あなたが本願を信じ念仏すれば往生できる」という声も、ことばの上では「あなた」と呼びかけられている「わたし」が本願を信じ念仏すればというのですから、同様に自力と言わなければなりませんが、この呼びかけを聞くなかで、この呼びかけを通してどこかから「信心せよ」、「念仏せよ」という声が聞こえてくることがあります。そのとき、信心と念仏は「わたしに」おこるとしても、「わたしが」おこすのではなく、「信心せよ」、「念仏せよ」の声に促され、そうするようにはからわれていると感じます。これが他力の信心、他力の念仏です。
 これまで区別せずにきましたが、声を「きく」と言うときに、「聴く」と「聞く」があります。「聴く」はこちらから声をゲットしようとして、耳をそばだてて聴きます。誰かが「あなたが本願を信じ念仏すれば往生できる」と言うのを「きく」ときはこちらの「聴く」です。一方、その声を通して、その声の中から、「信心せよ」、「念仏せよ」という声が「きこえて」くるときは「聞こえる」の方です。この場合は、むこうからやってくる声にゲットされています。「聴く」が自力で、「聞こえる」が他力であることは言うまでもありませんが、大事なのは、他力の「聞こえる」は自力の「聴く」なかでしかおこらないということです。
 ここに方便の意味があります。他力の真実には自力の方便の通路を通してしか至ることができないのです。

タグ:親鸞を読む
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