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身もふたもない真実 [正信偈と現代(その68)]

(6)身もふたもない真実

 スピノザは『エチカ』でこんなことを言っています、「おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」(第3部、定理6)、「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない」(同、定理7)と。
 「自己の有に固執しようと努める」というのは、平たく言いますと、「現にある通りにあり続けようとする」ということです。スピノザは文字通りあらゆる物についてそのように言っているのですが、これを生きものに限定しますと、これまでつかってきたことば「生きんかな」がこれにあたり、要するに「このまま生き続けようと努力すること」です。生きとし生けるものはみな「このまま生き続けようと努力しており」、それが生きものの本質であるというのです。
 少し前に(3)こう言いました、生きることはさまざまなことをすることに他ならず、そして何かをしようとすれば、そこに目的意識がなくてはならず、それは「AをするのはBをするためであり、BをするのはCをするためで…」というようにどんどん遡及することができる、と。で、とことん遡及しますと、ついには「ただ生きるため」というところに行きつきます。かくして、詰まる所、「生きるために生きている」ことが明らかになります。これが「生きんかな」であり、スピノザの言う「自己の有に固執しようと努める努力」です。
 ぼくらの周りにいる動物たちを見ていますと、ひたすら生きんかなとして生きています、自己の有に固執しています。ぼくらも所詮おなじなのですが、ただそこにさまざまな目的を介在させますから、「生きるために生きている」という身もふたもない真実から目をそらせることができるわけです。そしてもっともな目的を立てることで立派に生きていると思い込むのです。こんなふうに生きることの真実から目をそらし、自分で人生を切り拓いているかのように思い込むところからさまざまな問題が生じてきます。

タグ:親鸞を読む
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