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釈迦・弥陀は慈悲の父母 [親鸞の和讃に親しむ(その67)]

(7)釈迦・弥陀は慈悲の父母

釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便(ぜんぎょうほうべん、巧みな手立て)し われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり(第74首)

釈迦・弥陀二尊、慈悲の父母、いろいろ手立て尽くしては、われらを目覚めさせようと、つねにはからいたもうなり

われらの信心は、われらの力では何ともならず、釈迦・弥陀の方便により起こしていただいたと詠われます。「賜りたる信心」ということで、他力思想の原点がここにあります。信心とはある気づきです。それは「こんなわたしが、こんなわたしのままでもうすでに救われている」という気づきです。わが妻は、ぼくが日頃ブログに書いている文章を読んでは、「あなたの言っていることは、“そのままで救われている”というひと言に尽きる」と揶揄します。同じことを手を変え品を変えて言っているだけで、新鮮味がないと言いたいのでしょう。おっしゃる通りで、ぼくにはその気づきにすべてがかかっています。たったそれだけと見えるかもしれませんが、ぼくにとってこの気づきに至るのにこれまでのすべての時間がかかったとも言えるのです。そしてその気づきを与えるために「釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し」てくださったと感じられるのです。

ぼくが講座で「信心はむこうから思いがけずやってきます」と言いますと、ある方が、その方は若いころ武道をやっておられたようですが、「気づきは確かに突然やってきますが、でもそれは長い努力の賜物ではないでしょうか。日頃どうすれば上達するだろうと研鑽を重ねているから、その結果としてある日突然気づきが起こると思うのですが」と言われます。まったく言われる通りで、ただ漫然と口を開けて待っていれば「棚からぼた餅」というようにはなっていないでしょう。「どうすれば」という問いがあるからこそ、それに応えるように気づきがやってくるのに違いありません。でもそれは気づきがやってきてから言えることで、気づいてやるぞと思ってどれほど努力しても、それが報われる保証はどこにもありません。気づきはやはりむこうから思いがけずやってくるのです。だからこそ、「釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり」と思えるのであり、そこから「仏恩報ずるおもひ」(浄土和讃、第1首)が湧き出てくることになります。


タグ:親鸞を読む
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