SSブログ
『教行信証』「信巻」を読む(その19) ブログトップ

よきひと [『教行信証』「信巻」を読む(その19)]

(9)よきひと


われらは本願そのものと直接遇うことはできず、そこに「よきひと」がいなければならないということ、これについてもう少し考えたいと思います。


キリスト教においてもイスラム教においても、人は神(ヤーウェ、アッラー)と直接あいまみえることはできず、そこにはイエスやムハンマドという媒介者がいなければなりません。キリスト教徒は神の子・イエスのことばを通して神・ヤーウェを信じ、イスラム教徒は預言者・ムハンマドのことばを通して神・アッラーを信じるしかないということです。これは永遠なるもの(神)と時間のなかにあるわれらとは直に接するすべがないということを意味します。われらにとって永遠なるもの、無限なるものは「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり」(『唯信鈔文意』と言わなければなりません。


本願そのものもまた直に接することはできず、そこに「よきひと」が介在する必要があります。『大経』が本願の教えを説くにあたり、法蔵菩薩の物語からはじめていることもこのことに関係するのではないでしょうか。永遠の阿弥陀仏と永遠なる本願から話をはじめてもよさそうに思われますが、そうはせずに法蔵菩薩を登場させ、「時に国王ありき。仏(世自在王仏)の説法を聞きて、心に悦予を懐く。すなはち無上正真の意(菩提心)を発(おこ)す。国を棄て王を捐(す)てて、行じて沙門となる。号して法蔵といふ」と述べられます。そしてこの法蔵菩薩が一切衆生を救おうとして四十八の誓願をたて、これが成就して阿弥陀仏となったと話を進めるのです。


親鸞はこの法蔵の物語について『一念多念文意』でこう語ります、「この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無礙のちかひをおこしたまふをむねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり」と。「この一如宝海」というのが「こころもおよばれず、ことばもたへた」永遠なるもので、そこから「かたちをあらはして」現われたのが法蔵菩薩だというのです。法蔵菩薩もまた、その意味で、われらに永遠なる本願を媒介するための「よきひと」であるということができます。



タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』「信巻」を読む(その19) ブログトップ