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超世無上に摂取し [親鸞の和讃に親しむ(その87)]

(7)超世無上に摂取し

超世無上に摂取し 選択五劫思惟して 光明・寿命の誓願(第十二願の「光明無量の願」と第十三願の「寿命無量の願」)を 大悲の本としたまへり(第19首)

一切衆生すくわんと、五劫のあいだ思惟して、光明・寿命の誓願を、大悲のもととしたまえり

ここで弥陀の悲願として「光明無量の願」と「寿命無量の願」が上げられます。「アミターバ(無量のひかり)」と「アミターユス(無量のいのち)」としての阿弥陀仏が登場してくるのです。実体としての「わたし」が骨身にまで染み込んでいる思い込みにすぎないことを見てきましたが、その思いに骨の髄まで囚われていることは「わたし」がみずから知ることはできず、阿弥陀仏から気づかせてもらうしかないことを、浄土門は教えてくれるのです。実体としての「わたし」への囚われは、実際には「わがもの」への囚われとして現れますが、そのことを自分で知ることはかないません。それは外部から気づかせてもらうしかありませんが、その外部を浄土門は「アミターバ」「アミターユス」として形象化して教えてくれるのです。

初期経典において釈迦はこんなふうに言います、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」(『ダンマパダ』第5章「愚かな人」)と。実体としての「わたし」があるという思いに囚われていることから、「わが子」、「わが財」に囚われることになり、それがあらゆる苦しみの根源であることを釈迦は明らかにしてくれました。さて釈迦はこの囚われを彼みずから知ることができたのでしょうか。もしそうだとしますと、彼はもう囚われの外部にいたとしか考えることができませんが、それは釈迦をわれらとはまったく異質の存在として特別扱いすることです。彼もまたわれらと同じ人間であるとしますと、それをどこかから気づかされたと考えるしかありませんが、浄土の教えはそれを「アミターバ」「アミターユス」からと教えてくれるのです。


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