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法照(ほっしょう)の文 [『唯信鈔文意』を読む(その15)]

             第2回

(1)法照(ほっしょう)の文

 見てきましたように、親鸞ははじめに「唯信鈔」という題名について注釈を施しています。そしてそれに続いて、法照の次の偈文について詳しく注釈していきます。

  如来尊号甚分明(にょらいそんごうじんふんみょう)
  十方世界普流行(じゅっぽうせかいふるぎょう)
  但有称名皆得往(たんうしょうみょうかいとくおう)
  観音勢至自来迎(かんのんせいしじらいこう)

 読み下しますと、「如来の尊号は甚だ分明なり。十方世界に普く流行せしむ。ただ名を称するのみありて、皆往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎えたまふ」となります。訳すまでもないと思いますが、こんな意味です、「弥陀の名号は明々白々であり、世界中にあまねく行き渡っています。ただそれを称えるだけで、みな浄土へ往生できるのです。観音・勢至の両菩薩が自ら迎えにきてくださいます」。
 法照禅師とは唐代の僧で、『五会法事讃(ごえほうじさん)』をあらわし、この偈文もそこから引かれています。聖覚が『唯信鈔』にこの文を引用しているのですが、何の解説もありませんので、「ゐなかのひとびとの」ためにその意味を噛み砕いておこうという訳です。
 聖覚がどうしてこの文を引いたかを手短に説明しておきます。
 『唯信鈔』はこんなことばで始まります、「夫(それ)生死をはなれ仏道をならむとおもはむに、ふたつのみちあるべし。ひとつは聖道門、ふたつには浄土門なり」と。そして聖道門は「行をたて功をつみて今生に証をとらむとはげむ」のに対して、浄土門は「順次生(来生)に浄土にむまれて、浄土にして菩薩の行を具足して、仏にならむと願ずる」のです。


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