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生死すなわち涅槃なり [「『正信偈』ふたたび」その77]

(8)生死すなはち涅槃なり

次に第三、四句「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」です。われらに信心がおこるということは、「生死すなはち涅槃なり」ということが了解できることに他ならないというのです。「生死すなはち涅槃なり」というのは大乗仏教の真髄中の真髄であり、その奥義ともいうべきことですが、それが本願の信心がおこることで了解できると言うのですから大変です。

惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」という趣旨のことが言われているのはどこかといいますと、『浄土論』の「かの世界(浄土)の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」という文を注釈しているところで、「凡夫人ありて煩悩成就するもまたかの浄土に生ずることを得れば、三界の繫業、畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得」と言われているのがそれです。このなかの「煩悩を断ぜずして涅槃分を得」とは「生死すなはち涅槃なり」と同じことですから、この文は煩悩具足の凡夫に信心がおこり浄土に往生することで「生死すなはち涅槃なり」の境地に至ると言っているのです。

この「生死すなはち涅槃なり」は、そのままのかたちでのみ込むのははなはだ困難ですが、生死を「わたしのいのち」に、涅槃を「ほとけのいのち」に変換することで近づきやすくなります。生死の世界とは「わたしのいのち」の世界すなわち自他相剋の娑婆に他なりませんし、涅槃の世界とは「ほとけのいのち」の世界すなわち自他一如の浄土に他なりません。さて信心がおこるということは、はじめて「ほとけのいのち」に目覚めることです。これまではただ「わたしのいのち」しかありませんでしたが、いまや「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のふところのなかで生かされていることに気づいたのです。このとき、「わたしのいのち」すなわち生死は、そのまま「ほとけのいのち」すなわち涅槃です。


タグ:親鸞を読む
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