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懈慢界とは [はじめての『高僧和讃』(その180)]

(8)懈慢界とは

 次の和讃です。

 「本師源信和尚は 懐感禅師(えかんぜんじ)の釈により 『処胎経(しょたいきょう)』をひらきてぞ 懈慢界(けまんかい)をばあらはせる」(第91首)。
 「源信和尚『要集』で、懐感禅師の釈により、『処胎経』をひらいては、懈慢界をば明かしたり」。

 源信が、善導の弟子である懐感の『群疑論』に依り、『菩薩処胎経』から引用して懈慢界と名づけられる化土について述べているということです。では『菩薩処胎経』には懈慢界についてどう説かれているかといいますと、「西方に、この閻浮提(えんぶだい、われらの住む世界)を去ること十二億那由他(なゆた)に懈慢界あり。国土快楽(けらく)にして…、阿弥陀仏の国に生れんと欲する者も皆深く懈慢国土に著(じゃく)して、前に進んで、阿弥陀仏の国に生るることあたはず。億千万の衆に、時に一人ありて能く阿弥陀仏の国に生る」とあります。
 ここにも、阿弥陀仏の国や懈慢国土はこの穢土とは別の世界という描写の典型がみられます。ここを去ること十万億土に阿弥陀仏の国があり、その手前、十二億那由他に懈慢国土があるというように。しかし阿弥陀仏の浄土とは「土地」でも「国」でもなく、「いのちのとらえ方」であることを述べてきました。穢土というのは「わたしのいのち」を「わたしのいのち」としてしかとらえない生き方であるのに対して、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であると気づいた生き方が浄土です。としますと懈慢界とは、どのような「いのちのとらえ方」でしょう。
 懈慢界にとって、「わたしのいのち」しかないのではなく、「ほとけのいのち」があるのは当然のことです。しかし「ほとけのいのち」はどこか手の届かないところにあり、何とかしてそれに近づき一体となりたいと願っています。そのためにはできる限りのことをしようと思うし、「念仏も」その重要な手立てだと考えています。念仏が「往生浄土〈のための〉行」となったとき、その浄土は懈慢界になっているのです。はるかかなたに「ほとけのいのち」を望みみて、そこに入りたいと願い念仏をする、これが懈慢界の生き方です。

タグ:親鸞を読む
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