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廓然(かくねん)として大悟して無生忍を得たり [『観無量寿経』精読(その91)]

             第8回 無量寿仏の名

(1)廓然(かくねん)として大悟して無生忍を得たり

 釈迦の説法(十六観)が終わり、韋提希が大いなる利益を得たことが述べられます(善導はここを「得益分(とくやくぶん)」とよびます)。

 この語を説きたまふ時、韋提希、五百の侍女(じにょ)とともに仏の所説を聞き、時に応じてすなはち極楽世界の広長(こうじょう)の相を見たてまつる。仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然(かくねん、明るくひらけること)として大悟して無生忍を得たり。五百の侍女、阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん、仏のさとりを求める心)を発(おこ)して、かの国に生ぜんと願ず。世尊、ことごとく、「みなまさに往生すべし。かの国に生じをはりて、諸仏現前三昧(諸仏が目の前に現れる三昧)を得ん」と記したまへり。無量の諸天、無上道心を発せり。

 韋提希は釈迦から定善・散善の教え、さらには念仏の教えを受け、極楽浄土と阿弥陀仏を見ることができたと述べられます。もっとも韋提希はすでに二度、浄土と仏を見る機会がありました。一度目は釈迦に「憂悩なき処を説きたまへ」と願い、いわゆる光台現国において阿弥陀仏の浄土を見ることができましたし、二度目は第七観に先だって、阿弥陀仏が空中に住立するのを見ています。そして今度は釈迦の十六観の説法がすべて終わったところで、「極楽世界の広長の相を見たてまつ」り、また「仏身および二菩薩を見たてまつる」ことができたと言われるわけです。
 さてここで気になるのは、韋提希が仏と浄土を見ることができたというのは、浄土に往生したということなのかどうかという点です。これまでの説き方では(とりわけ九品段においては)、浄土に往生するのは「命終らんとする時」ですから、韋提希もその例外ではないはずですが、ここではしかし「極楽世界の広長の相を見たてまつる。仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得たり」とあります。この「廓然として大悟して無生忍を得たり」という一句をどう理解すればいいでしょう。仏とその浄土を観ることができたそのとき、もう往生できたということでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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