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はじめての『教行信証』(その156) ブログトップ

2013年12月31日(火) [はじめての『教行信証』(その156)]

 どうして方便の教えが必要なのかという疑問に答えるように、『無量寿経』と『観無量寿経』を比較する形で親鸞はこう述べます。
 「『無量寿経』の三心(至心、信楽、欲生)と『観無量寿経』の三心(至誠心・深心・回向発願心)とは同じでしょうか、それとも異なるのでしょうか。答え。善導大師の解釈を頼りに『観無量寿経』を拝見しますと、そこには顕彰隠密、つまり表に顕れた意味と、奥に隠された意味とがあります。表の意味と言いますのは、定善・散善(心を集中して行う善と散乱した状態で行う善)について説き、上・中・下の三輩(三種類の行者)と、至誠心・深心・回向発願心の三心を説いています。しかし、定善・散善の二善や世福、戒福、行福の三福(世俗の善、小乗の善、大乗の善)は浄土に生まれるための行とは言えません。三輩それぞれの三心は、自力で往生しようとするものであり、決して他力の一心ではありません。これらは釈迦が方便として浄土往生を心から願わせようとして説いて下さったものです。これが『観無量寿経』の表のこころです。つまり顕の義です。一方、奥に隠された意味と言いますのは、阿弥陀仏の一切衆生を救おうとする弘願のことであり、平等の救いをもたらす他力の一心のことです。」
 「顕彰隠密」という聞きなれない難しいことばが出てきました。顕彰とは表に顕われた、そのままの意味で、隠密とは奥に潜んでいる秘められた意味ということです。ここでは『観無量寿経』に説かれる三心(至誠心・深心・回向発願心)について、その表向きの意味、すなわち顕彰の義では、自らさまざまな善(定善散善など)を積んで往生しようという自力の行を指しているが、その奥に潜んでいる意味、すなわち隠密の義では、『無量寿経』の三心(至心、信楽、欲生)と同じで、如来回向の一心に他ならないというのです。

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