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カント哲学と仏教 [『ふりむけば他力』(その71)]

(10)カント哲学と仏教

 カントの批判哲学を解説するのに手間取りましたが、さて肝心なのは「わたし」です。カントにとって「わたし」とは何かを考えることで、カント哲学と仏教との意外な親縁性が見えてくるのです。こんなことを言いますと、おそらく多くの方から「おいおい、気は確かか」と心配されるのではないでしょうか。確かにカント哲学と仏教は縁もゆかりもないように見えます。ぼく自身、学生時代にカントを卒論のテーマとしながら、その一方で親鸞に強くひかれてきましたが、両者に何か関係があるなどと思ったことはついぞありません。カントはカント、親鸞は親鸞とまったく交わることはありませんでした。しかしいつ頃からでしょうか、まてよ、カント哲学と仏教はどこかでつながっているのではないかという感触をもつようになってきたのです。
 先ほど、デカルト哲学と仏教は水と油だといいました。一方は「わたし」は「ある」と言い、他方は「ない」と言うのですから、もう取りつく島がないと。しかし仏教の側から言いますと、デカルトに対して、ほんとうはありもしない「考えるわたし」をあるかの如く思い込んでいるだけではないかと半畳を入れる余地があります。確かに何かを考えるとき、そこに「わたし」がいるのは疑いありませんが、しかしそれは実体としての「わたし」ではないということです。デカルトはこれにすかさず反論するでしょう、そんなふうに思っている同じ「わたし」がそこにいるじゃないか、と。でも仏教サイドからさらなる反論がありえます、いや、そのような実体としての「わたし」がいると思い込んでいるだけではないかと。かくしてこの応酬は止まるところがありません。
 これに終止符を打ってくれたのがカントです。
 デカルトは「わたしは考える、ゆえにわたしはある」ということから、「考えるわたし」は実体として存在すると結論しましたが、その推理には誤謬があると指摘してくれたのがカントです。われらが何かを考えるとき、そこに「わたし」がいるのは確かです。これはもうデカルトが言うように疑う余地がありません。しかしカントに言わせれば、その「わたし」というのは、感覚によって得られたさまざまな印象(データ)を感性の形式(空間・時間)や悟性の概念(原因・結果など)を用いてくっきりとした像として立ち上げる「はたらき」に他なりません。

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