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親鸞の和讃に親しむ(その101) ブログトップ

不了仏智のしるしには [親鸞の和讃に親しむ(その101)]

第11回 正像末和讃(3)

(1)不了仏智のしるしには(これより誡疑讃(かいぎさん)

不了仏智(ふりょうぶっち)のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり(第60首)

仏智不思議をしらずして その真実をうたがえば 世の善悪をたよりとし 浄土のほとりにとどめらる

これから親鸞がみずから「仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり」と注記する和讃が23首にわたってつづきます。第1首目のこの和讃は『大経』に「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了(さと)らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生れんと願ず。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて、寿(いのち)五百歳、つねに仏を見たてまつらず…これを胎生といふ」とあるのに由っています。これで見ますと、「如来の諸智を疑惑」することと、「罪福信じ善本をたの」むことがコインの表裏の関係になっていることが分かります。これは他力を疑い、自力を信じるということ、あるいは「ほとけのいのち」を疑い、「わたしのいのち」だけを信じるということです。

これまで「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」に包みこまれ、そのなかで生かされていると言ってきました。それに気づくことが本願に遇うことであると。さてしかし、そのように言いますと、かならずと言っていいほど、「ほとけのいのち」って何のことかという疑問の声が出ます。どこを見ても「わたしのいのち」ばかりではないか、どこに「ほとけのいのち」などというものがあるのか、という問いです。なるほど「わたしのいのち」は無数にあるが、しかし、それがどれだけたくさんあっても「わたしのいのち」であることには変わりがないではないかということです。「ほとけのいのち」とは「無量のいのち」で、「わたしのいのち」は「有量のいのち」ですが、確かに有量をどれだけ集めても有量でしかなく、無量にはなりません。その意味でこの問いはまことに真っ当な問いであると言わなければなりません。

しかし、です。この問いは「ほとけのいのち」とは何かと、それをこちらから「つかみ取ろう」としています。然るに、「ほとけのいのち」はこちらから「つかみ取ろう」としても、自分の影を踏もうとするときのように、どこまでも逃げていくのです。ところが不思議なことに、あるときわれらは「ほとけのいのち」にむんずと「つかみ取られて」いることがあるのです。それが「ほとけのいのち」に気づくということで、もう「ほとけのいのち」のなかで生かされていると気づくのです。


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