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定散諸機各別の [親鸞の和讃に親しむ(その26)]

(6)定散諸機各別の

定散諸機(じょうさんしょき)各別の 自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に 通入すべしとねがふべし(第81首)

定散諸機のそれぞれは、自力の心をひるがえし、如来回向の信心に、目覚めんことを願うべし

ここはことばの説明が必要でしょう。「定散諸機各別の」とは「定善と散善を修める人たちそれぞれが」という意味ですが、定善とは「定心の善」で、雑念を払い心を集中して仏とその浄土を一心に念ずることをさし,散善とは「散心の善」で、普段の散り乱れた心のままで悪を捨て善をなすことをさします。このことばは善導が『観経』に説かれる十六の観法の前十三観を定善、あとの三観を散善としたことに由来します。次に「自力の三心」といいますのは、これまた『観経』に説かれる至誠心・深心・回向発願心の三心を、親鸞が自力の心と見ているということです。したがってこの和讃は、定善の人も散善の人も、この自力の三心により浄土へ往生しようとしているが、それをひるがえし、他力の信心(「如来利他」とは他力ということに他なりません)に通入することではじめて往生がかなうのであると詠っているのです。

第61首のところで第19願が方便の願であることを見ましたが、親鸞は『観経』をこの願の立場で説かれた方便の経典とするのです。

さてここで「自力の三心」を〈ひるがへし〉「他力の信心」に〈通入すべし〉と言われていることに注目したいと思います。この言い回しをそのままに受け取りますと、われらは自力をひるがえして他力に転入することができるような印象を受けますが、自力と他力はそのような関係にはなっていません。自力ではダメだから、他力でいこう、と思って他力を選ぶなどというわけにはいかないのです。そもそも方便と真実の区別は、真実に遇うことができてはじめて明らかになることで、真実に気づきませんと、自分は方便のなかにいるなどと思うことはなく、これが唯一の道だと信じています。ところがその道を歩む中でふと、ああ、これは方便であって真実ではないぞと気づかされるのです。ですから方便を〈ひるがえして〉真実に入るのではありません、あるとき方便がおのずから〈ひるがえって〉、知らぬ間に真実に入っていることに気づくのです。


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