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信心とは本願力の感受 [『教行信証』「信巻」を読む(その51)]

(10)信心とは本願力の感受


  心が何かをなそうと思うから何かをなすことができるのですが、しかし心が何かをなそうと思うのにはそこに理由があるはずです。「理由なき殺人」などということばもありますが、それはその理由をはっきりと特定することができないというだけで、殺人をなすに至った経緯がかならずあります。釈迦が縁起ということばで言おうとしたのはそのことで、何ごとも「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」と言わなければなりません。心が何かをなそうと思うにはそこに必ず理由があるということは、心はその理由に規定されているということですから、行いの第一起点ではありません。何かを思うことは心「に」起こりますが(その意味では起点ですが)、心「が」起こすのではないということです(第一起点ではありません)。


これが「心を賜る」ということです。少し前のところで「よろづのこと、そらごとたはごと、まことあることなし」について、これは間違いなく親鸞の口から出たことばですが、親鸞自身が生みだしたものではなく、如来から賜ったことばだと言いましたのもそのことです。「よろづのこと、そらごとたはごと」という思いは親鸞「に」起こりましたが、親鸞「が」起こしたのではなく、それは如来から賜ったのです。これは「思い」というよりも「感じ」と言った方がより実際に即していますが、一般に何かを感じるのは自分の心「に」起こるものの、自分の心「が」起こすことはできません。寒さを感じるのは、寒さ自身がそう感じさせているのであり、いくら自分でそう感じようとしても寒さがなければ感じることはできません。寒さを感じるのは自分「に」起こりますが、自分「が」起こすことはできません。


信心とは本願力の感受に他なりませんが、それは自分「に」起こるものの、自分「が」起こすことはできず、本願力が起こすしかありません。これが「賜りたる信心」ということです。


 (第5回 完)



タグ:親鸞を読む
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