SSブログ
親鸞の和讃に親しむ(その63) ブログトップ

縦令一生造悪の [親鸞の和讃に親しむ(その63)]

(3)縦令一生造悪の

縦令(じゅりょう、たとい)一生造悪の 衆生引接(いんじょう、導きとる-左訓)のためにとて 称我名字(わが名字を称えよ)と願じつつ 若不生者(もし往生できなければ《正覚を取らじ》)とちかひたり(第61首)

一生悪をつくっても、そんな衆生のためにとて、南無阿弥陀仏となえれば、かならず救うと誓われた

弥陀の本願は一生造悪の衆生のためにあると詠われます。悪をなす縁があるかないかの違いはあっても、悪人であることにおいては誰もみな同じであり、また悪人であることは死ぬまで変わらないと言わなければなりません。そんなわれら悪人を救うために本願はあるということ、これが悪人正機の意味するところです。『歎異抄』の講座でこんな話をしましたら、それを聞いたぼくの友人はこう言います、「自分はそんなに悪人だろうか、そうとは思えないのだが」と。おそらく彼には「みな一様に悪人」という言い方が腑に落ちないのでしょう。そりゃ縁があれば悪をなすかもしれないが、実際に悪をなすかなさないかが大事であり、自分は悪と言えるほどの悪をなしていないのだから、それを一緒くたに悪人とされるのはどうも、ということです。彼は思ったことを率直に話してくれますので、自分では分かったような気になっていたことを、一度立ち止まって考え直させてくれます、「みな一様に悪人」とはどういうことか、と。

「わたし」への囚われ、すなわち我執に立ち返らなければなりません。われらは「わたし」という実体が存在すると思い込み、それに囚われています。そして「わたし」に囚われるということは、ただ「わたし」という実体が存在すると思うだけでなく、その「わたし」をすべての天辺に置くことに他なりません。あるいは「わたし」をあらゆることの起点とすることです。仏教ではこれを渇愛ということばで表現することもあります。のどの渇いた人が突き動かされるごとく水を求めるように、盲目的に「わたし」に愛着するということです。それは他者との対立、軋轢を招くこと必至で、親鸞はそのありようを「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)と描き出してくれます。このようにわれらのなかに渦巻く我執は、縁さえあれば、いつでも具体的な悪として姿をあらわすべくスタンバイしているのですから、実際に悪をなす、なさないに関わらず、「みな一様に悪人」と言わなければなりません。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の和讃に親しむ(その63) ブログトップ