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久遠の弥陀 [『教行信証』精読(その98)]

(11)久遠の弥陀

 さてしかし、過去無数劫の仏・海徳も阿弥陀仏、西方の現在仏・無量明も阿弥陀仏ということをどう理解すればいいでしょう。
 ここで少し形而上的な思弁を許していただけるなら、海徳と無量明を「永遠と時間」の関係としてとらえることができます。すなわち海徳を「久遠の弥陀」とし、無量明を「十劫正覚の弥陀」と解するのです。まず久遠の弥陀から。そもそも阿弥陀仏はその名・アミターユス(無量寿)からして永遠でなければなりません。もし阿弥陀仏が時間の中の存在だとしますと、阿弥陀仏以前の衆生はどうなるのでしょう。弥陀の本願があって衆生の救いがあるのですから、もし弥陀の本願があるときはじまったとしますと、それ以前に生きていた衆生は救いから漏れてしまうことになります。これでは一切衆生を救うという看板に偽りありと言わなければなりません。
 しかし、われらは永遠なるものに直接あいまみえることはできません。永遠は時間のなかに姿をあらわしてはじめて遇うことができるのです。
 実際、親鸞は法然というよき人を通して弥陀の本願に遇うことができました。永遠なる本願は、法然という人物として時間の中に姿をあらわしたのです。では、法然はといいますと、善導というよき人を通して永遠の本願に遇ったのですし、その系譜はずっとさかのぼることができます。かくしてついには「十劫正覚の弥陀」に行きつくことになります。永遠の本願は「十劫正覚の弥陀」として時間のなかに姿をあらわしたのです。しかし先ほども言いましたように、十劫の昔に歴史がはじまったわけではなく、それ以前から無数の衆生が救いを求めていたはずです。ここに「久遠の弥陀」のレーゾン・デートルがあります。「久遠の弥陀」は「十劫正覚の弥陀」以前から存在し、時間のなかにその姿をあらわしていたはずです。
 こう言うべきでしょう、「十劫正覚の弥陀」というのは「久遠の弥陀」が時間のなかにあらわれた姿を言っているのであると。

タグ:親鸞を読む
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