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独り生れ独り死し、独り去り独り来る [「親鸞とともに」その44]

(5)独り生れ独り死し、独り去り独り来る

これまた『無量寿経』にこんなことばが出てきます、「人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る(独生独死、独去独来)」と。身が土から遊離していますと、どれほど多くの人たちに囲まれ、どれほどにぎやかに暮らしていても、「独り生れ独り死し、独り去り独り来る」という孤独を感じざるをえません。「世間愛欲のなかにありて」とありますから、一人ぼっちで生きているのではありません、世間の人々と忙しく交流しながら、愛欲の生活をしているということですが、そのなかにあって「独り」なのです。宇宙飛行士が真っ暗な宇宙空間のなかにポンと放り出されたように「独り」なのです。

このことばのなかで特に「独り死す」ことを考えてみたいと思います。先に、われらはこの世に生まれてくるとき、この身ひとつで生まれてくるのではなく、同時に身を支える土が与えられていると言いました(2)。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」だけで生まれてくるのではなく、「ほとけのいのち」のなかに生まれるのです。ところが「わたしのいのち」は「独り」生れてくるように思うのは、「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」から切り離されているということです。いや、「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のなかで生かされているという気づきがないということです。

「独り死す」ことも同じです。われらは死を思うとき、先ほどの宇宙飛行士のように、真っ暗な無限の宇宙空間のなかに独り放り出されるような感覚を懐きますが、「ほとけのいのち」に生かされていることに気づくことができますと、死の向こうが明るくなります。なぜなら、死の手前にいるいますでに「ほとけのいのち(アミターユス)」に生かされているのであり、したがって、死の向こうに行っても、「わたしのいのち」の戸籍はなくなりますが、「ほとけのいのち」の本籍に戻っていくだけですから、いますでに「ほとけのひかり(アミターバ)」に照らされているように、死の向こうも「ほとけのひかり」は明るく輝いているに違いないからです。


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身と土の分離 [「親鸞とともに」その43]

(4)身と土の分離

かくして、われらが生きているこの土は、実はそれそのものが阿弥陀仏であるところの世界(仏土)であるのですが、われらはその仏土からわが身を切り離し、そこからわが身に都合が良いような断片を適当に切り取り、それをわが土として所有していると言っていいのではないでしょうか。そのとき「この土は善し」、「この土は悪し」と分別して、善き土を所有しようとし、悪き土を捨てようとします。善き土が見いだせないとなると、「わが善き土はどこに」と求めて、どこまでも彷徨い歩くことになります。あのチルチルとミチルのように、青い鳥という幸せの住む土を求めて、世界の果てまで探し回るのです。その結末はといいますと、どこまで行っても見つからず、泣く泣く家に帰ってみると、何とそこに青い鳥がいたということでした。

われらは個々の「わたしのいのち」を生きていますが、それはすべてのいのちの無尽のつながりである「ほとけのいのち(無量寿)」のなかで生かされているのであり、それだけとして自立して存在しているわけではありません。ところが本願に遇うまでは、そのことに気づくことなく、すべては「わたしのいのち」あってのものだねと思い込んで(これが我執です)、世界は「わたしのいのち」のためにあると高上りしているのです。そうなりますと、周りの世界に対して何かにつけて不満を懐くことになり、心の休まるときがありません。

『無量寿経』の印象的な表現に、「田あれば田に憂へ、宅(いえ)あれば宅に憂ふ。…田なければ、また憂へて田あらんことを欲(おも)ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ」とあります。もっと古い経典(『法句経』)には、釈迦のことばとして次のようなものがあります、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」と。これが、身が土から分離して浮遊しているときのありようです。


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身土不二とは [「親鸞とともに」その42]

(3)身土不二とは

身を土から切り離して生きるということは、わが身が生きるために土を利用しようとしているということに他なりません。そして身が土を利用するためには、与えられた土のなかで、益をもたらす土と、益をもたらさず、むしろ害となる土を分別しなければならず、益をもたらす土を選びとり、害をもたらす土を切り捨てることになります。たとえ益をもたらすとして選びとられた土も、そのような観点から選ばれているだけですから、状況が変わって益をもたらすことがないとなれば、容赦なく捨てられます。身が土を利用するという関係は所詮そのようなものでしかありません。

これは身と土が本質的に分離しているということです。たとえ結びついているように見えても、それはただ身が土を利用しているということであり、それだけのことにすぎません。これがわれらの身と土の関係ですが、では仏教で言う「身土不二」とはどういうことでしょう。それは身がそのままで土であるということで、仏のありようを表しています。仏においてはその身(仏身)とその土(仏土)は別ではなく、阿弥陀仏とはその浄土のことに他なりません。そして浄土とはここにあるこの世界とは別のどこかにあるのではありません。浄土とはこの世界そのものであるからこそ、阿弥陀仏は「微塵世界にみちみちたまへる」(『唯信鈔文意』)のです。阿弥陀仏とはこの世界そのものであると言うべきです。

『無量寿経』には「ここを去ること十万億刹(せつ)なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と説かれていますが、これを、ここから十万億刹(刹とは国の意味で、十万億の国々をすぎてということです)離れたところに、この娑婆とは別の世界(アナザーワールド)があり、そこを安楽世界とよぶと受けとるべきではありません。そうではなく、十万億刹も彼方からここに至るまでのすべてが安楽世界であると理解すべきで、だからこそ阿弥陀仏は「微塵世界にみちみちたまへ」るのです。その微塵世界そのものが阿弥陀仏であると受けとるべきです。


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身と土 [「親鸞とともに」その41]

(2)身と土

ぼくと妻は、どちらの故郷からも離れた場所で暮らしています。デラシネ(根なし草)です。それにはさまざまな事情があるのですが、一つには故郷のしがらみから離れたいという思いがありました。故郷と距離を置いて生活することで、そこに多少の寂しさがあるとしても、それよりも自由に暮らすことを選んだと言えます。ところが年老いてきた妻がしきりに寂しいと言うようになりました。急を要するようなとき(大病や死に見舞われたとき)、頼れる人が一人もいないと言うのです。もちろん長年住むことで知り合いもできますし、親しい友人もいるのですが、やはり身内のようなわけにはいかないということです。

このようなことから考えますと、われらが生きる土とは、われらの身を支える土台であり、そこから遊離していると感じるときに寂しさや孤独を味わうことになると言えます。デラシネと言いましたが、それは「根が引き抜かれている」ということで、身と土が離れていることです。さてここで考えなければならないのは、先ほど言いましたように、われらは身ひとつで生きることはできず、そこに土がなければならないのに、どうして身と土が離れるようになるのかということです。答えは明らかで、われら自身がわが身をその土から切り離しているのです。いや、こう言うべきでしょう、われらはわが身が生きる上で役に立つ土を切り取っていると。「この土は善し」、「この土は悪し」と分別して、善き土を選びとり、悪き土を選びすてているということです。

われらは身が与えられるとともに、土も与えられています。われらがこの世に生まれてくるときに、そこにすでに土があり、だからこそその上で生きていくことができるのです。「世界内存在」(ハイデッガー)ということばはそれを表しています。われらは真空のなかに生まれてくるのではなく、すでに存在する世界のなかに生まれてくるのであり、その内に包まれて生まれてくるのです。ところがわれらは自身(身)を世界(土)から切り離して生きるようになる、ここに孤独の問題の根源があるのではないでしょうか。


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はじめに(4) [「親鸞とともに」その40]

第4回 孤独ということ

(1)はじめに

この頃よく夢を見ます。だいたい三つか四つのパターンがあるような気がしますが、その一つが、多くの友人たちのなかにいながら孤独に苦しむという非常にあと味の悪い夢です(他のパターンもだいたい悪夢で、ああ、いい夢だったなどということはまずありません)。友人がいなくて寂しいわけでもなく、友人たちと仲が悪いわけでもありません、友人たちの輪のなかにいるのですが、だからこそ余計に孤独を感じてしまうという何ともたちの悪い夢です。昼間は特に何かに心が悩まされるようなこともなく、穏やかな日々を送っているのに、夢のなかでどうしてこんなに苦しい思いをしなければならないのかと思います。ここには何か深いわけがあるような気がします。

そもそも孤独とはどういうことでしょう。

孤独は、周りに人がいるかいないかとは関係がありません。たった一人であっても孤独を感じないことはありますし、多くの人と一緒にいるなかで強く孤独を感じることもあります。孤独を感じるかどうかは、傍に人がいるかいないかではなく、自分がいま生きている場に安らぎがあるかないかということではないでしょうか。場に安らぎが感じられれば、誰とも会わなくても孤独と思うことはなく、場に安らぎが感じられないと、どれほど多くの人と一緒にいても、そのなかで孤独です。われらはわが身ひとつで生きることはできません、かならず生きる場が必要ですが、その生きる場と自分との関係如何に孤独の問題の根っ子があるようです。

仏教に「身土不二」ということばがあります。わが「身」と、生きる場である「土」は切り離すことができないということです(穢土とか浄土というように、仏教では生きる場を「土」ということばで表します)。このことばをつかいますと、切り離すことのできない「身」と「土」がどのような関係になっているかということ、ここに孤独を考える鍵があるように思われます。


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火と木 [「親鸞とともに」その39]

(7)火と木

戻りましょう。「帰っておいで」という本願のよびごえが聞こえることが、本願を信じることに他ならないということ、これが問題でした。普通は、何かが聞こえてきたら、その真偽を吟味した上でそれを信じるものですが、本願のよびごえは、それが聞こえることが取りも直さずそれを信じることであるということ、これはどういうことかということです。そこで、本願の信心とは、如来の心(本願)がわれらの心にやってきて、われらの心とひとつになることであり、天親が『浄土論』冒頭で「世尊、われ一心に」と表明した「一心」とはその意味であると述べてきました。「帰っておいで」という本願のよびごえがやってきて、われらの心に沁みつき、本願の心とわれらの心がひとつになる、これが本願を信じるということであり、そこでは本願と信心はひとつになっています。

このことを言い表す絶妙のたとえが『論註』にあります、「火と木」のたとえです。

「たとへば火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごときなり」。火が本願で、木がわれらの心です。本願という火がやってきて、われらの心という木に点火しますと、もうその火は木を離れることがありません。木を離れることがありませんから、木をよく焼くことができるのであり、そこでは火は木とひとつになっています。これが本願の信心で、曽我量深氏はそのことを「如来、われとなりてわれを救いたまう」と言われます。

このように、「帰っておいで」という本願のよびごえが聞こえることが、取りも直さず、本願を信じることであり、そして先に見ましたように、本願を信じることがすでにつねに往生することです。第十八願成就文に「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得」とありましたように、「帰っておいで」というよびごえが聞こえたとき、もうすでに帰っているのです。親鸞が手紙のなかで「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と言っているのはそのことです。

(第3回 完)


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『浄土論』 [「親鸞とともに」その38]

(6)『浄土論』

『浄土論』という書物は、われらがどのようにすれば安楽浄土に生まれることができるかを説いていますから、われら(『浄土論』の言葉では菩薩)を主語として説かれています。ところが親鸞は主語をわれらから法蔵菩薩へと転換してこの書物を読むのです。たとえば「菩薩は四種の門(礼拝・讃嘆・作願・観察の四つの門)に入りて自利の行成就す、知るべし。菩薩は出の第五門(第五の回向門)をもつて利益他の行成就す、知るべし。菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他して速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上のさとり)を成就することを得るゆゑなり」という文がありますが、親鸞は「自利の行成就す」、「利益他の行成就す」をいずれも「成就したまへり」と読み、「成就することを得る」を「得たまへり」と読んで、主語を法蔵菩薩へと転換するのです。

親鸞がこのような読み替えをすることができた背景に曇鸞の『論註』があります。曇鸞はこの文を注釈する中で、こう問います、「どうして天親は〈菩薩は速やかにこの上ない悟りを成就することができる〉と言うのだろうか」と。そしてみずからこう答えます、「天親は〈菩薩は五門の行を修めて自利利他を行じるから〉と言っているが、しかし実を言えば(原文では、(まこと)にその本を求むれば)阿弥陀如来の本願力によるのである」と。すなわち曇鸞は、われらが自利利他の行を修めることで往生・成仏できるように見えるが(そして天親はそう説いているが)、実はそれは如来の本願力によるのだと言うのです。これが先の「一心」と関係してきます。

如来の心がわれらの心にやってきて、この二つが一つになることが「一心」ですが、そのときわれらの心は如来の心(本願)に他ならず、したがって、われらの心がなしているように見えることは、その実、如来の心がなしているのだということです。そこからしますと、天親はわれらが自利利他の行をなすように説いていますが、それは実は如来の行であると言わなければならず、かくして主語がわれらから法蔵菩薩へと読み替えられることになるのです。われらが礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の行をなしているかに見えて、実はわれらの内なる法蔵菩薩がそれをなしているということです。


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一心 [「親鸞とともに」その37]

(5)一心

ここで考えなければならないのは「信じる」とは何かということです。これは前にくわしく検討したことですが、その要諦を一言でいいますと、普通の信はわれらが何かに与えるものであるのに対して、本願名号の信は本願名号からわれらに与えられるものであるということです。さてしかし「信を与える」というのは分かりやすいですが、「信が与えられる」とはどういうことでしょう。これが浄土真宗で「たまわりたる信心」と言われることですが、その意味することをあらためて考えておきたいと思います。鍵となるのが「一心」ということばです。

天親は『浄土論』の冒頭で「世尊(釈迦です)、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と表明していますが、親鸞はこの「一心」に注目します。普通「一心」と言いますのは、他のことに心を向けることなく一つのことに集中するという意味ですが、親鸞はここに本願の信心の本質があると見て、それはわれらの心と如来の心(それが本願に他なりません)がひとつになることだと言うのです。こちらにわれらの心があり、あちらに如来の心があって、われらの心が如来の心を信じるというのではなく、如来の心がわれらの心にやってきて、ひとつの心になること、これが一心です。

こちらにあるわれらの心があちらの如来の心を信じるというのは、われらが「信を与える」ということですが、如来の心がわれらの心にやってきて、ひとつの心になること、これが「信が与えられる」ということです。そのときわれらの心は如来の心(本願)になっていて、われらの信心と如来の本願があるのではなく、信心となった本願、本願となった信心があるだけです。ですから、如来の本願とは何かと問われたら、それはわれらの信心であると答えるしかなく、われらの信心とは何かと問われたら,それは如来の本願であると答えるしかありません。

ところで『浄土論』という書物ですが、親鸞は上に述べた意味での「一心」の立場でこの書を読みますから、普通の読みとはまったく別の世界が展開することになります。ちょっと横道に入ることになるかもしれませんが、ここに親鸞浄土教の特徴がよく出ていますから見ておきましょう。


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よびごえが聞こえる [「親鸞とともに」その36]

(4)よびごえが聞こえる


 この三文のなかでとりわけ注目すべきは第十八願成就文で、「その名号を聞きて信心歓喜せん(聞其名号信心歓喜)」という言い回しに、名号を聞くことがそのまま本願を信じることに他ならないことがよくあらわれています。「その名号を聞きて」の「その」は、すぐ前の文、「十方恒沙(ごうじゃ、ガンジス河の砂のように無数)の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ」を受けており、この無量寿仏を指して「その」と言っているのです。この文は第十七願の成就文に当たり、すぐ前のところで四十八願のなかで唯一「名号を称える」とあるのが第十七願だと言いましたが、その願の成就文です。第十七願を上げておきますと「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめる)して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」とあります。


以上から了解できますのは、弥陀の名号を称えるのは「十方無量の諸仏」であり、その声をわれらが聞くということです。


ここで一言。「名」を漢和辞典で引きますと、夕と口とを合わせて、夕方のうす暗いときに、自分の名を名のって、自分がここにいると告げる意味をあらわす」とあります。これで見ますと、名には、それを名のるという意味が含まれていることが分かります。つまり阿弥陀仏の名は、それ自体が阿弥陀仏の名のりであり、「われはここにあり」と告げることであるということです。としますと、名はそれ自体が称名であるということになります。ただ阿弥陀仏の場合、阿弥陀仏自身が名のりを上げるのではなく、「十方無量の諸仏」が阿弥陀仏の名を称えるということです。すなわち「十方無量の諸仏」が「阿弥陀仏のもとへ帰っておいで」とよびかけ、そのよびごえがわれらに聞こえるということになります。


さて、いま問題としているのは、「帰っておいで」というよびごえが聞こえることが、取りも直さずそれを信じることであるということ、これです。普通には、何かが聞こえることとそれを信じることは別であり、何かが聞こえてきますと、それは信じるに値するものかどうかを吟味した上で信じることになるものです。ところが弥陀の名号は、それが聞こえてくること自体がそれを信じることであるというのですから、これは常軌を逸していると言わなければなりません。



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名号を聞きて [「親鸞とともに」その35]

(3)名号を聞きて

名号はわれらがそれを称えるより前に、むこうからよびごえとして聞こえるものであることを浄土の代表的な経典である『無量寿経』で見ておきましょう。『無量寿経』は弥陀の本願を説く経典と言えますが、その四十八願のなかに「名号」ということば(及びそれに類する「名」あるいは「名字」)は十三もの願に出てきます。そして一つの願を除いたあとのすべては「名号を聞きて」という形で出てきます(例外は第十七願で、そこでは「名号を称える」とありますが、そのことについては後で考えたいと思います)。第二十願を見ますと、こうあります、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係(か)け、もろもろの徳本を植えて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ」と。そのあと、第三十四から三十七の願、少し飛んで第四十一から四十五の願、そして第四十七と四十八の願に「わが名字を聞きて云々」と出てきます。

このことは名号は聞こえるものであることを何よりもはっきりと物語っていると言えますが、四十八願以外にも「名号を聞きて」という表現が出てくる箇所が三つあり、親鸞はそれらの文に『無量寿経』の神髄があると捉えていますので読んでおきましょう。まずは第十八願の成就文で、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまヘリ。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」とあります。次は東方偈とよばれる箇所に「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲(おも)へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る」とあります。最後は経典の末尾、流通分とよばれるところに、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす」とあります。

この三つの文はみな同じ趣旨で、「南無阿弥陀仏」というよびごえを聞くことができた人は、そのとき往生することができ、かならず仏となる身である不退転に住することが述べられています。四十八願において「わが名号を聞く」ことがどれほど素晴らしい功徳をもたらすかがこれでもかと語られましたが、その本願が成就して「その名号を聞く」ことができた人に実際どんな功徳があるかが説かれているのです(『無量寿経』はその上巻で四十八願が説かれ、そして下巻でそれが成就したことが説かれます)。


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