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本願と気づき [『ふりむけば他力』(その124)]

(5)本願と気づき

 これまで本願他力は気づきにおいてしか存在しないと述べてきました。すなわち本願はそれをこちらから知ろうとしても知ることはできず、むこうから気づかされるだけであるということです。さてしかし、この言い方においても、まだ本願はどこかにあるものとして対象的にとらえられています。そうではなく、本願とは本願の気づきそのものではないでしょうか。本願に気づくのではなく、むこうからやってくる密やかな声に気づかされること自体が本願であるということ。
 親鸞は「自然法爾章」と呼ばれる文で、「弥陀仏は自然のやう(様)をしらせん料なり」と言っていますが、弥陀仏とは本願に他なりませんから、本願は「自然のやう」すなわち「あるときむこうから気づかされる」ということを言うための方便であるということになります。われらはあるときふと「われへの囚われ」に気づかされます。この「むこうからふと気づかされる」ということを「他力による」と言い、さらには「弥陀仏の本願力によって気づかせてもらう」と表現して(物語って)いるのです。
 そのように表現することによって「むこうからふと気づかされる」という不思議を実感をもって伝えることができるからです。これが「自然のやうをしらせん料」の意味に違いありませんが、さて「われへの囚われ」の気づきは、取りも直さず「無量のいのち(無量寿、アミターユス)」の気づきに他なりません。「われへの囚われ」の気づきと「無量のいのち」の気づきは、前にふれました善導の二種深信で言えば、前者が「機の深信」、後者が「法の深信」で、この二つは二にして一です。
 さらに言えば、「煩悩即菩提」や「生死即涅槃」という大乗仏教の奥義ともいえる教えも、煩悩や生死が「われへの囚われ」、そして菩提や涅槃が「無量のいのち」を意味し、「われへの囚われ」に気づくことが、取りも直さず「無量のいのち」の気づきであると言っていると捉えることができます。この気づきによってわれらは救われるのです。いや、むしろこう言うべきでしょう、その気づきが救いそのものであると。この「により」は、気づきを因として救いという果があると言い替えることができますが、しかしこの因果は同時因果すなわち縁起であり、異時因果である原因・結果とはまったく異なります。つまり気づきが原因として先行し、しかる後に救いが結果として生まれるのではなく、気づきのあるところにすでに救いがあり、救いのあるところにすでに気づきがあるということです。

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