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煩悩具足のわれら [『歎異抄』ふたたび(その37)]

(4)煩悩具足のわれら

 「わたしは紛れもなく悪人です」という思いは自分の中からは出てきません。それは外から「おまえは紛れもない悪人ではないか」と突きつけられ、「おっしゃる通りです」と頷かされるというかたちではじめて現れます。「わたしは正真正銘の嘘つきです」もまた自分から出ることはありません。これもどこかから「おまえは大嘘つきではないか」という刃が突きつけられ、「その通りです」と答えざるをえなくなるのです。先に「わたしは正真正銘の嘘つきです」という言明は何ともならないパラドクスに陥ると言いましたが、それはこれをみずから言明するからであり、どこかからやってきた「おまえは大嘘つきではないか」に否応なく頷かされるときにはパラドクスは起こりません。
 「おまえは紛れもない悪人ではないか」とか「おまえは大嘘つきではないか」という刃は何を意味するでしょう。
 文中の「煩悩具足のわれら」ということばにその答えがあります。「おまえは紛れもない悪人ではないか」というのは「おまえは煩悩具足の凡夫ではないか」ということに他なりません。煩悩とは何でしょうか。親鸞は「煩は身をわづらはす、悩はこころをなやます」(『唯信鈔文意』)と解説してくれますが、われらが身を煩わし、こころ悩ますその大元は我執でしょう。第1回に触れました「われへの囚われ」「わがものへの囚われ」です。われらは「われ」を何の根拠もなくすべての第一起点として最上位に置き、そしてさまざまなものを「わがもの」と思い込み執着しています。このように何の根拠もなく思い込んでいるということが、取りも直さず「われ」や「わがもの」に囚われているということです。
 あるとき水族館で魚たちが泳ぐのを見ていたとき、隣にいた妙齢の女性が「うわー、美味しそう」と言われたのには驚きました。「ああ、われらは何の根拠もなく、魚たちをわが食べ物として見ているのだ」と身に沁みて思ったことでした。しかしその妙齢の女性はこころに何の咎めもなく心底「美味しそう」と思ったのであり、かく言うぼくも皿に盛りつけられた刺身を見て「ああ、うまそう」と思います。そこには「身をわづらはし」「こころをなやます」ものは何もありません。これは我執とは気づきであるということを意味しており、そして、その気づきは自分のなかからは出てこず、どこかから突きつけられることを示しています、「それは我執ではないのか」と。

タグ:親鸞を読む
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