SSブログ
『観無量寿経』精読(その88) ブログトップ

ただ五逆と誹謗正法を除く [『観無量寿経』精読(その88)]

(9)ただ五逆と誹謗正法を除く

 さてここで大きな問題として浮かび上がるのが、第十八願の「唯除五逆誹謗正法(ただ五逆と誹謗正法を除く)」という但し書きです。第十八願では五逆と謗法は救い(往生)から除外されているにもかかわらず、この下品下生段では五逆・十悪のものも南無阿弥陀仏と称するだけで「すなはち極楽世界に往生することを得」と説かれているという問題です。これをどう理解すればいいかは昔から人々を悩ませてきました。まずは曇鸞。彼はこう言います、十八願は五逆と謗法の重罪をあわせもつものを除外しているのであり、下品下生のものは五逆だけで謗法の罪は犯していないから往生できる、と。いかがでしょう、少し苦しい解釈のような気がします。
 一方、善導はこう言います。十八願で五逆と謗法が除外されているのは、これはきわめて重罪であり、「衆生もし造れば、ただちに阿鼻(あび、地獄)に入りて歴劫周章(りゃくこうしゅうしょう、いつまでもそこをウロウロして)して出づべきに由なし」であるから、如来は「この二つの過(とが)を造らんを恐れて、方便して止めて往生を得ず」と言われたのであって、「またこれ摂せざるにはあらざるなり」と。要するに、如来は五逆と謗法という重罪を「抑止(おくし)」するために「唯除」と言われたのであり、それを犯してしまったものを見捨てるわけではないということです。親鸞もこの解釈をとり、こう言います、「唯除といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生をみなもれず往生すべしとしらせんとなり」(『尊号真像銘文』)と。何ともありがたい解釈ではないでしょうか。
 ここで頭に浮ぶのが「造悪無碍」です。一生造悪のものも念仏すれば往生できるのだから、「こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべし」(『末燈鈔』第20通)と思うのが「造悪無碍」あるいは「本願ぼこり」ですが、これを親鸞は「(煩悩の)酔いもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、(煩悩という)毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし」と言い、「(本願という)薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はず」と厳しくその誤りを指摘します。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『観無量寿経』精読(その88) ブログトップ