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大聖易往とときたまふ [親鸞の和讃に親しむ(その30)]

(10)大聖易往とときたまふ

大聖易往(いおう)とときたまふ 浄土をうたがふ衆生をば 無眼人とぞなづけたる 無耳人(むににん)とぞのべたまふ(第90首)

往き易くして人はなし、釈迦はうたがうものたちを、眼も耳もないものたちと、名づけて信を勧めたり

易往にして難信、これが浄土です。なぜ易往か。ここは穢土でありながら、そのままで同時にもう浄土であるからです。もうすでに浄土にいるのですから(もうすでに救われているのですから)、これ以上に易しいことはありません。ではなぜ難信か。この穢土がそのままで浄土である(生死がそのままで涅槃である)などということは普通の分別ではどうにも受け入れがたいからです。こことは別のどこかに浄土があるというのなら、まだしも信じられるかもしれませんが、ここがもうすでに浄土であるなどとどうして信じられましょうか。これが「浄土をうたがふ衆生」です。なぜ疑うのかといいますと、気づきがないからです。もうすでに「無量のひかり」が届いているのに気づきさえすれば、ここが穢土であるままで浄土であることが身に沁みるのに、その「無量のひかり」に気づいていないからです。もうすでに「いつでも帰っておいで(南無阿弥陀仏)」の声が届いているのに、それが聞こえないからです。だから「無眼人」と言われ、「無耳人」と言われるのです。気づきの眼と耳がないのです。

「無眼人」、「無耳人」ということばは『目連所問経』に出てきますが、これを生まれながらに気づきの目と耳をもっていない人と受けとるべきではないでしょう。世の中に気づきの目と耳をもっている人ともっていない人の二種類がいるのではありません。光明・名号の気づきがあるかないかは、その縁があるかないかということです。光明・名号はわれらのもとにすでに来ているのですが、それに気づく縁があるのかどうか。それは、われらはみな一様に悪人ですが、そのことに気づくかどうかもその縁があるかどうかによるのと同じことです。そして縁があるかどうかは事後的にしか分かりません。その縁に遇ってはじめて「ああ、そういう縁だったか」と分かるのです。光明・名号に気づく縁に遇ってはじめて「ああ、気づく縁があったのか」と思い至るのです。

(第3回 完)


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