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囚われから抜け出る [『歎異抄』ふたたび(その41)]

(8)囚われから抜け出る

 ここまでは夢とパラレルですが、ただ、このあと事情が異なってきます。夢の場合は、それが夢だと気づきますと、もう完全に夢の世界からオサラバして、うつつの世界を生きることになりますが、「われへの囚われ」の場合は、それが囚われだと気づいて囚われから抜け出しても、依然として囚われの世界を生きざるをえません。一方では囚われから抜けていながら、同時に囚われのなかにある。いわば片足は囚われから抜け出ていながら、もう片足は囚われのなかにあるのです。
 これが具体的にどのような事態かといいますと、ぼくらはあるものを「わがもの」としてそれに囚われながら、同時に「あっ、これは囚われだ」と気づいているのです。逆に言いますと、「あっ、これは囚われだ」と気づきながら、しかし囚われから離脱することができないという事態です。「わがものへの囚われ」から離脱できないという点では囚われに気づいていなかった時と何も変わらないとも言えますが、でも囚われに気づいたことで、微妙ですが決定的な違いが生まれてきます。
 もういちど夢でいいますと、夢を見ているときは、それを夢だとは思わず、リアルに苦しみますが(ぼくの場合、夢はほとんど苦しい夢です)、夢を見ながら、「あっ、これは夢だ」と気づいている場合を考えてみましょう(実際にはそういうことはありません、夢を見ながら「これは夢かな」と思うときには、もう半分覚めています)。そうしますと、一方では夢のなかで苦しみながら、同時に「これは夢だ」と気づいていますから、その苦しみは和らいでいます。
 同じように、「わがもの」に囚われながら、それに気づいていますと、囚われによる苦しみを味わいながら、同時に「これは囚われだ」と気づいていますから、その苦しみは、そうでない場合と比べて格段に和らぎます。卑近な例でいいますと、どういうわけか体調がすぐれず苦しい思いをしているときに、医者から「その病因は○○です、いい薬がありますから、それを飲めば一週間もすれば楽になるでしょう」と言われたら、それだけで急に楽になったように感じるのと似ています。

タグ:親鸞を読む
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