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染香人のその身には [『浄土和讃』を読む(その194)]

(6)染香人のその身には

 次の一首です。

 「染香人(ぜんこうにん)のその身には 香気(こうけ)あるがごとくなり これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳とまうすなる」(第116首)。
 「香に染まったその身には、香気あたりにただよいて、ゆえに念仏するひとを、香りのひとと名づけたり」。

 染香人といいますのは、如来の香りに身が染まったものということで、念仏のひとを指します。香りに身が染まるという言い回しには何とも味わい深いものがあります。染という字は「そまる」とも読み、「しみる」とも読みます。身を主語にして言いますと、身が香りに「そまる」のであり、香りを主語にしますと、香りが身に「しみる」となります。身が香りに「そまり」、香りが身に「しみた」とき、身と香りはひとつであり、切り離すことができません。
 ふと思いつくのが『論註』の一節です。「是心作仏(ぜしんさぶつ)といふは、いふこころは心よく仏になるなり。是心是仏(ぜしんぜぶつ)といふは、心のほかに仏ましまさずとなり。たとへば火、木よりいでて、火、木をはなるることをえず。木をはなれざるをもてのゆへに、すなはちよく木をやく。木、火のためにやかれて木すなはち火となるがごとし」。これは、火を仏にたとえ、木をわれらの心にたとえています。火は木を離れないから木を焼くことができ、木は火に焼かれて火となるように、仏はわれらの心を離れずわれらの心に火をつけますから、われらの心は仏となることができるというわけです。火と木はひとつであるように、仏とわれらの心もひとつになっています。
 少し前のところで言いましたように、信心も念仏も「わたし」という場で起っていますが、「わたし」が起しているのではありません。如来の起した信心と念仏の香りに「わたし」の身が染まったのです。向こうからやってきた信心と念仏の香りが勝手に「わたし」の身に染みついたのです。気がついたら「わたし」の身はすでにいい香りに染まっていて、「わたし」は後でそのことに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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