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責任ということ [「親鸞とともに」その73]

(5)責任ということ

ここで責任ということを考えたいと思います。自分がしたことに対して責任を負うのは当たり前ですが、さて他人のしたことに責任はあるでしょうか。自分の保護監督下にある子どものしたことについては、その責任を負わなければならないでしょうが、それ以外では責任はないというのが普通の考えでしょう。しかしそれは法律上のことであり、道義上、あるいはもっと広く人情として、われらの責任感というものはかなりの範囲に及ぶのではないかと思われます。

むかし韓国に旅行したときこんなことがありました。新羅の古都・慶州の名刹、仏国寺を訪ねた折、ガイドの韓国人女性がわれら日本人観光客にこんなふうに問いかけてきました、「このお寺には石造建築物しか残っていませんが、どうしてだと思いますか」と。そしてキョトンとしているわれらに「それはお国の豊臣秀吉がわが国を侵略したとき火をかけたからです」とみずから答えたのです。彼女の様子からわれらを困らせようとしているのではないことは分かりましたが、でも少なくともぼくはそれを恥ずかしく思い、そのことに責任を感じました。日本人のしたこととは言え、もう400年以上前のことですから、そんなことに何で自分が責任を感じるのかと思いながら、でも現に感じたのです。

これはやはり「つながりの感覚」としか考えられません。つながりに濃淡はあっても、そこにつながりがある以上、自分とは関係ないと切り捨てることができないのです。もうひとつの例を上げますと、ときどきテレビにアフリカの飢餓線上にある子どもの映像が流れることがあります。手足が極端に細く、眼だけが異様に大きく見開かれた姿を見ますと、「かわいそうに」と思うとともに、そのことに責任を感じさせられます。自分は何不自由なく暮らしているのに、世界にはこんなに苦しんでいる子がいることに何か居心地が悪くなり、そこに自分の責任を感じてしまう。何で責任を感じなければならないんだと思いながら、でも感じざるをえないのです。何がしかの義捐金を送るという行動はそんなところから起こるのでしょう。


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