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二つの真理 [はじめての『尊号真像銘文』(その64)]

(11)二つの真理

 新しい真理はなく、真理はすでに語られているなどと言いますと、では世の学問はどうなるのだという疑問がすぐ浮びます。世の学者たちはまだ誰も語ったことのない真理を見つけ出そうと日夜苦労しているのではないかと。そこであらためて言わなければなりません、真理には二種類あると。ひとつはわれらが「こちらからゲットする真理」で、学問がめざしているのはこの真理です。しかし真理にはもうひとつあって、それはわれらが「むこうからゲットされる真理」です。気づいたときには、もうすでにその真理のなかにある。天親にとっての真理はこの真理です。
 さて「こちらからゲットする真理」は無数にあります。そして学者たちは日々あらたな真理を見つけだそうと必死に努力しています。われらが生きていくためにはさまざまなもの(衣食住)をゲットしなければなりませんが、「こちらからゲットする真理」はそのために必要な真理ですから、ゲットしなければならないものの数に応じて真理も無数であり、しかも日進月歩です。一方「むこうからゲットされる真理」はただひとつです。これにゲットされれば、それが救われたということであり、そして救いはひとつですから、ゲットされる真理もひとつしかありません。釈迦の説いた真理がそのただひとつの真理です。
 念のために申し添えますが、釈迦も真理にゲットされたのであって、真理をゲットしたのではありません。
 釈迦の説いた真理といいますと、縁起や無我を上げるのが相場であり、そしてそれは釈迦がゲットした真理であると考えるのが普通でしょう。仏教とは釈迦の教えということですから、縁起や無我という真理は釈迦が修行の末に手に入れたものとするのが自然です。ところが『無量寿経』という経典では、語るのは釈迦であるものの、何を語るかといいますと、縁起や無我についてではなく、もっぱら弥陀の本願のことです。仏典は「如是我聞」で始まるのが通例で、これは阿難が釈迦から「こんなふうにお聞きしました」ということですが、『無量寿経』では釈迦自身が弥陀から「こんなふうにお聞きしました」というかたちで説かれていくのです。
 釈迦は真理をゲットしたのではなく、本願という真理にゲットされたのです。

タグ:親鸞を読む
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