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責任ということ [『ふりむけば他力』(その56)]

(7)責任ということ

 宿業の思想は各自の責任を解除するものではないことを見てきましたが、それどころではありません、むしろはるかに広範な責任を身に感じさせることになります。宿業を背負うということは、いまの自分は過去から今日にいたる重々無尽のつながりのなかでつくられてきたと感じることですから、そうしたつながりのある数知れない人たちを自分とは関係ない(無縁である)と切り離すことができません。「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟」(『歎異抄』第5章)ですから、極端に言えば、一切の有情の責任を背負うことになります。
 もうずいぶん前のことになりますが、韓国の慶州(キョンジュ)を旅したことがあります。むかし新羅の都がおかれた歴史の街ですが、その名刹・仏国寺(のちに世界歴史遺産に指定されました)に行ったときのことです。案内してくれた韓国人女性ガイドはわれら日本人観光客にこんな問いをなげかけました、「このお寺に残っていますのは石造の建造物だけです、どうしてだと思いますか」と。きょとんとしているわれらに彼女はみずからこう答えます、「それはお国の豊臣秀吉の軍勢が火を放ったからです」。ぼくのなかに緊張が走りました。
 おそらく彼女は秀吉の朝鮮侵略の罪をわれらに問おうとしているのではないでしょう。それは彼女の表情から感じられます。ただ歴史の知識として知っていることを、しかもわれら日本人に関係あることを教えてあげようとしているだけでしょう。でもぼくは恥ずかしさを感じた、まるで自分がしたことのように恥じたのです。責任を感じたと言ってもいいですが、これはしかしどういうことでしょう。秀吉は日本人ですが、しかしぼくとは縁もゆかりもありません。しかも五百年も前の人です。その人がしたことにどうしてぼくが責任を感じるのか。
 南京大虐殺や慰安婦問題が突きつけられるたびに、ぼくのなかに痛みが走ります。ぼくの手は汚れていません。なのにぼくの身体に痛みと恥ずかしさを感じる。これが宿業の感覚です。宿命の思想はすべての責任を宿命に負わせますが、宿業の思想はすべての責任を自分の身に感じさせるのです。

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