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諸仏とわれら [親鸞の手紙を読む(その41)]

(12)諸仏とわれら

 称名の前に聞名があるということ、南無阿弥陀仏を称えるのは、それに先立って南無阿弥陀仏が聞こえるからであるということ、ここにポイントがあります。
 南無阿弥陀仏は諸仏からやってきて、それがわれら(信心のひと)の身体を通り、われらの称名となってまだどこかへ届けられていくのです。第17願と第18願をつなげて読みますと、そのような南無阿弥陀仏の流れが見えてきます(実際、『大阿弥陀経』や『平等覚経』という本願が二十四願の『大経』の異訳では、『大経』の第17願と第18願が一体となっていますが、それがもとの姿だったのでしょう)。ということは、はじめこそ諸仏の称名がわれら(信心のひと)の称名を引き起こすわけですが、このサイクルが回りはじめれば、われらの称名が諸仏の称名の代わりを引き受けることになります。
 われらの称名が他の誰かにとって「聞其名号、信心歓喜」となるわけです。かくして南無阿弥陀仏は衆生から衆生へと次々リレーされていくことになります。
 考えてみますと親鸞は法然から南無阿弥陀仏を受け取り、それを多くの人たちに伝えてくれたことで、それがぼくにまでつながってきたのです。そのことを親鸞はこう言っています、「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふやふ歟」(『歎異抄』第2章)と。
 このように見てきますと、諸仏とわれらとの境界が限りなく透明になっていきます。親鸞の書きものを読んでいるうちに、諸仏のことを言っているのか、われらのことを言っているのか判然としなくなるように感じることがあります。さらには曇鸞の『論註』を読んでいる時にも同じような感覚になることがあります。法蔵菩薩のことを言っているのか、それともわれらのことなのか分からなくなるのです。「信心のひとは如来とひとし」ですから、そうなるのが自然であるということでしょう。

                (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
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