SSブログ
「信巻を読む(2)」その100 ブログトップ

慚は人に羞づ、愧は天に羞づ [「信巻を読む(2)」その100]

(3)慚は人に羞づ、愧は天に羞づ

「慚はうちにみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ」ということばが印象的です。あらためて「あんなことをしたから、こんなひどい結果になったのだ」と後悔するのと、「どうしてあんなことをしてしまったのか」と己を恥じるのを比較しましょう。周りから「悔やんでも仕方がないから、前を向いて生きましょう」と慰められたとき、前者でしたら、「そうだな、過去のことにこだわっても仕方がない」と思うかもしれませんが、後者では、どれほど「悔やむのをやめなさい」と言われてもそれで慚愧が弱まるとは思えません。

これは何を意味するかといいますと、どちらもわれらの内に起こりますが、前者はその源が自分自身にあるのに対して、後者は外部に源があるということです。

後者の慚愧の源が外にあるということは、自分が自分を恥じるには違いないのですが、そのときどこかから「お前というヤツは」という「こえ」が聞こえているということです。あるいは自分の偽らざる姿が不思議な「ひかり」のなかに照らし出されているということです。その「こえ」や「ひかり」の前に、われらは否応なく慚愧せざるを得なくなるのです。ですからどれほど「後悔するなかれ」と言われても、いや、そう言われれば言われるほど後悔せざるをえないのです。

さてどこかからやってくる「こえ」や「ひかり」の前に、否応なく懺悔せざるをえないという経験は、自分を超えた何か大いなる力に遇うという経験です。ある方から質問されたことがあります、その「こえ」は自分の中からやってくるとは考えられないかと。確かに「良心のこえ」というものがあり、それが自分を責めるということはありますが、その場合、多かれ少なかれ「底上げ」がしてあります、「自分には自分を断罪できる程度には良心がある」と。断罪する善き自分が断罪される悪しき自分から差し引かれているのです。問題は阿闍世の慚愧ですが、そこには「上げ底」はあるでしょうか。あるとは思えません。阿闍世はやはり外からやってくる容赦のない「こえ」に遇っているのです。

さて、これは第二幕で明らかにされることですが、阿闍世の逆悪を赦すことができるのは、それを容赦なく断罪する「こえ」だけです。容赦なく断罪するからこそ、その前に慚愧するものを赦すことができるのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その100 ブログトップ