SSブログ
「信巻を読む(2)」その126 ブログトップ

調伏するということ [「信巻を読む(2)」その126]

(3)調伏するということ

ここで注目したいのは「調伏」ということばです。提婆達多は釈迦のもとに出向き、弟子たちを自分にまかせてもらいたい、そうすれば「われまさに種々に法を説きて教化して、それをして調伏せしむべし」と持ちかけるのですが、この調伏ということばからすぐ連想されるのが日蓮の折伏です。調伏にせよ折伏にせよ、人を言い負かしてひれ伏させるというニュアンスですが、考えたいのは、仏法は人を言い負かしてひれ伏させるものかどうかということです。日蓮なら、謗法のものがいるときに(たとえば法然)、それを言い負かしてひれ伏させることこそ肝心であり、もしそれをしないなら、謗法に手を貸すことになるではないかと言うことでしょう。しかし仏法とはそのようなものか、ぼくが日蓮に懐く根本的な違和感はそこにあります。

相手を言い負かすということは、真理はこちらにあることを証明するということです。真理はどこかにあり、それを自分がつかんでいることを相手に有無を言わさず認めさせること、これが調伏(折伏)です。さてしかしそもそも仏法という真理はどこかにあり、それをわれらがつかみ取るようなものかどうか、これが問題です。真理と言われるものの大半はそのようなものでしょう。学者も政治家も、そして実業家も法律家もみな如何にして真理を自分のものとすることができるかに血道を上げています。「わがもの」という罪深い観念はここでも猛威を奮っているのです。

仏法はしかしそのような真理でしょうか。仏法という真理がどこかにあり、それをつかみ取ったものが、つかみ取っていないものを調伏するのでしょうか。そうではないということをこれまで繰り返し述べてきました。仏法という真理(すなわち弥陀の本願)は、われらがそれをつかみ取るのではなく、その真理がわれらをつかみ取るのです。われらは気がついたらそれにつかみ取られているのです。誰かが誰かを調伏するのではありません、真理がわれらを調伏するのです。そして真理に調伏されたものは、その前に深く頷くしかありません。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その126 ブログトップ