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『一念多念文意』を読む(その31) ブログトップ

本文4 [『一念多念文意』を読む(その31)]

          第3回 このよのうちにて不退のくらゐに

(1)本文4

 しかれば、必至滅度の誓願を『大経』にときたまはく、「設我得仏、国中人天、不住定聚、必至滅度者、不取正覚」と願じたまへり。また『経』にのたまはく、「若我成仏、国中有情、若不決定、成等正覚、証大涅槃者、不取菩提」とちかひたまへり。この願成就を、釈迦如来ときたまはく、「其有衆生、生彼国者、皆悉住於正定之聚、所以者何、彼仏国中、無諸邪聚、及不定聚」とのたまへり。これらの文のこころは、「たとひわれ仏をえたらむに、くにのうちの人天、定聚にも住して、かならず滅度にいたらずば、仏にならじ」とちかひたまへるこころなり。また、のたまはく、「もしわれ仏にならむに、くにのうちの有情、もし決定して等正覚をなりて大涅槃を証せずば、仏にならじ」とちかひたまへるなり。かくのごとく法蔵菩薩ちかひたまへるを、釈迦如来五濁のわれらがためにときたまへる文のこころは、「それ衆生あて、かのくににむまれむとするものは、みなことごとく正定聚に住す。ゆへはいかんとなれば、かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚はなければなり」とのたまへり。この二尊の御のりをみたてまつるに、すなわち往生すとのたまへるは、正定聚のくらゐにさだまるを不退転に住すとはのたまへるなり。このくらゐにさだまりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆへに、等正覚をなるともとき、阿毘跋致(あびばっち)にいたるとも、阿惟越致(あゆいおっち)にいたるともときたまふ。即時入必定ともまふすなり。

 (現代語訳) さて、第11願の必至滅度の願が『大経』に説かれていまして、「たとひわれ仏をえたらむに、くにのうちの人天、定聚にも住して、かならず滅度にいたらずば、仏にならじ」とあります。また『如来会』では「もしわれ仏にならむに、くにのうちの有情、もし決定して等正覚をなりて大涅槃を証せずば、仏にならじ」と誓われています。この願が成就されたことを、釈迦如来は「それ衆生あて、かのくににむまれむとするものは、みなことごとく正定聚に住す。ゆへはいかんとなれば、かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚はなければなり」と説かれています。最初の文は、「わたしが仏となる時、わたしの国の衆生が正定聚の位に定まり、必ず悟りをひらくことができないなら、わたしは仏にならない」と誓われているのです。二つ目の文は、「わたしが仏となる時、わたしの国の衆生が等正覚の位に定まり、必ず仏の悟りを得ることができないなら、わたしは仏にならない」と誓われています。このように法蔵菩薩が誓われたことを釈迦如来が濁りに満ちた世に住むわれらに説いてくださったのが三つ目の文で、それは「阿弥陀仏の浄土に往生しようとするものは、みな正定聚の位に定まる。なぜなら阿弥陀仏の浄土には邪定聚や不定聚はいないからである」ということです。これら弥陀・釈迦二尊の教えを見ますと、先ほど第18願成就文に「すなわち往生を得る(即得往生)」と言われたのは、正定聚の位に定まることを指し、それを不退転の位につくとも言われているのです。この位に定まりますと、必ず無上の大涅槃に至るべき身となるのですから、それを「等正覚となる」とも言い、あるいは龍樹はそれを「阿毘跋致、阿惟越致に至る」とも言い、さらには「即時に必定に入る」とも言うのです。

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